「異邦人」アルベール・カミュ、窪田啓作訳(新潮文庫、S.29.9.30)

この著名な作品を初めて読んだのは、多分大学生のころであったろう。それ以来手にしたのは実に久しぶりのことだ。主人公のムルソーが殺人の動機を「太陽のせいだ」と言ったところ以外、細部は殆ど忘れている。

 先ず一読した率直な感想は、ここに描かれたムルソーのような人間像が担っている精神の在り方は、時代の経過の中で概ね咀嚼されてし尽くされた、いわば風化した類型的人間像であるということだ。これらの思想(?)は思想としてさえ、すでに二十世紀で終わっている。

 
 ここで言う精神の在り方とは、キリスト教を支配的な宗教に戴くローマ帝国の末裔国家としての欧州世界にすむ人間の精神世界のことである。
 ムルソーのような人間のタイプに対し、欧州人は「不条理」というもっともらしい哲学的な味付けをするが、要は一神教特有の目的論的世界観の否定、もっと端的に言えばヘーゲル哲学へのアンチテーゼに他ならない。
 敢えて言えば、ムルソーのAppearanceは、ヘーゲルの有名なテーゼ、
「理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。」
(『法の哲学』序論)
と対極的な立場を体現していると考えられる。
ヘーゲルはこのようなことも言っている。
「世界史が理性的にすすむこと、世界史が世界精神の理性的かつ必然的なあゆみである・・・。」
「自由とは、自分みずからを目的としてそれを実現するものであり、精神の唯一の目的なのです。
 この究極目的に向かって世界史は仕上げられていく・・・。この究極目的は、神が世界とのかかわりのなかで意思するもの・・・。」
ヘーゲル『歴史哲学講義』序論、長谷川宏訳:岩波文庫

 この作品で、フランスの植民地アルジェリアという本来ムスリム国家に住む欧州人のムルソーが主人公というのは興味深い設定である。

 だが、こうした感懐を抱くのも、『異邦人』の思想的・哲学的意味について従来散々語り尽くされた諸々(もろもろ)が先入観として刷り込まれているためかもしれない。
 あらためて、予断を排し一個の小説として虚心に読んでみると、僅か27歳の作家が書いたとは思えぬ見事な作品で、簡潔にして確かなイメージを喚起する文章、登場人物のキャラクターや様々な状況場面の的確な描き分け、そして構成の巧みさなど、まさに傑作という名にふさわしい。繰り返して読んでみて、面白さは全く減じないどころか、新たな発見さえある。

 この小説はムルソーの一人称で書かれているが、これは小説作法上ただムルソーの目を借りているだけで、彼の心理の奥底までを描こうとしたものではない。ムルソーはまるで他人事のように自己や時々の状況を語る。
 彼の無関心な性格を描くために、以下のような表現が頻出する。
「別に話したくもなかったから、・・・」
「私は、それはどっちでもいいことだが、・・・」
「それには何の意味もないが、・・・」
「そうしたものは、いっさい、実際無意味だということを、・・・」
 
 殊更ムルソーの性格を際立たせるためのこのような表現は、やや作為的に過ぎるように思える。

 この作品で素晴らしいのは、第1章の終り、ムルソーがアラビア人をピストルで撃つ場面だ。焼けつくような光を放つ太陽から逃れられず、「空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた」苛酷な状況下で錯乱に陥り、身動きしない身体になお4発撃ち込む彼の衝動的な行動に、ありうることとして読者を感情移入させてしまうカミュの文章の力技にはただ感嘆するだけだ。
 この行為の意味や動機を理性的に分析・説明しようとしても無駄であろう。だが、理性と明晰をモットーとする裁判では残忍で不可解な行動としか映らないのは当然だ。

 
 しかし人がみな、ムルソーのように社会の名目的な決まりごと(社会慣習、宗教道徳、理性的であることなど)を無意味として、自分の感性のなすがまま無関心に生きていけば、人間社会は混沌の中に落ち込むだろう。こうした一種の没倫理の本性は決して美しいものだけではない。底流では、嫉妬、情欲、エゴ、自惚れ、残忍性、裏切り、他人の不幸を喜ぶ心根などがタテにヨコに織りなしている。これらを人間という不完全な生きものに開放してしまうくらい危険なことはない。人間は、感情を制御できない未熟な生きもので、自分自身を正しく評価することさえできないのだ。
 このように、ムルソーの本性には社会や人間に関わる事象への著しい無関心が潜んでいるが、ここから疑われるのは彼の病的側面だ。(例えば「離人症性障害」など。)

 カミュの言う「不条理」についてのまとまった文章が『シーシュポスの神話』(新潮文庫、S.44.7.15)である。サルトルをして「『異邦人』の哲学的翻訳」と言わしめた哲学的エッセイだ。(『異邦人』解説より)
 この書は、極めつけの美文を駆使して、青春特有の悲憤慷慨調かつ悲痛な面持ちでで、不条理をめぐるあれこれを綴ったカミュ渾身のエッセイである。
 本書は冒頭に、「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学上の根本問題に応えることなのである。」という文章を置く。

 本書でも少しだけ引用されているショウペンハウエルは、その著書の中で面白いことを言っている。「私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信奉者だけである。」という指摘だが、このユダヤ系の宗教には、勿論キリスト教も含まれる。(『付録と補遺』から自殺に関する論考5篇を収めた『自殺について』斎藤信治訳(岩波文庫、'52.10.15))

 次に「人生が生きるに値するか否か」という問いかけだが、生物としての人類には、種族保存本能がDNAに組み込まれているので、このような設問をすること自体にあまり効用はないだろう。

 
 そもそも「不条理」の意味合いについてカミュは以下のように述べる。
「不条理という言葉にあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が烈しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者に属する。いまのところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである。」
 これがカミュの不条理の種明かしなのだろうが、やや観念をもてあそび過ぎている嫌いはある。前述したように、ムルソーの本性は世界との関わり方についての無関心な態度、即ちニヒリズムである。

 まあ、この世の本質が不条理であることは、古代より当たり前のことで、ソポクレスか十八史略でも読めばすぐ分ることだ。
 今は、不条理などという曖昧な概念より、ニコラス・タレブが指摘しているとおり、懐疑主義を応用した「確率」という考え方が、デタラメで不確実な(偶然に左右される)世界を把握するのに役立つに違いない。(ニコラス・タレブ『まぐれ』望月衛訳:ダイヤモンド社
 そしてタレブはこの本で、人間の頭は確率を扱える仕組みにはなっていない、と繰り返し述べている。

 なお、サルトルの「『異邦人』解説」とモーリス・ブランショの「異邦人の小説」を読んでみたが、時代を閲したことで、すでに歴史の遺物となっているように思える。それにしてもサルトルの解説の何とも懇切親切なことに感嘆する。