「「量子論」を楽しむ本」佐藤勝彦監修(PHP文庫、'00.4.17)―よく分らないが、知的興奮を誘う

本書の紹介によれば、監修者の佐藤勝彦教授は(本書の執筆当時)東大教授にして宇宙論研究を世界的にリードする存在。コペンハーゲンニールス・ボーア研究所で客員教授を務めた経験を持つ。従来より、一般読者向けに最新物理学の啓蒙的な書物を書くことにおいては定評があり、量子論を分りやすく説明する本の著者(本書では監修者)としては最適な人選と言えるだろう。
 私の本棚には、同じ佐藤教授の『相対性理論を楽しむ本』(PHP文庫)と『アインシュタイン宇宙論』(角川文庫)が並んでいる。佐藤教授は、私のような科学オンチながら最新の物理学に関心のある者にとって、都筑卓司(故人)とともにまことに有難い存在である。(都筑教授の著書では『不確定性原理』(講談社ブルーバックス:'02.9.20)が、不確定性原理を通じて、量子力学についてやさしく解説した名著であると思う。)

 本書は、監修者が<はじめに>で量子論とはいったいどんなものであるのかを、図やイラストを用いてやさしく解説し、量子論に興味はもってはいるが、専門書など読むゆとりのない皆さんに、量子論を直感的にでも理解していただきたいという趣旨で書かれたものである。」と言っている。読了してみて漠然とではあるが量子論の核心のイメージに直感的に触れ得たような気がするのは、群盲象を撫でるの類だろうか。

 本書の解説の流れは、(少々粗っぽいが)ざっと記すと下記のようになる。
 先ず第1章「量子の誕生」(サブタイトルが、量子論前夜)では、光の謎に迫る研究から量子が生れたとして、マックス・プランク(黒体放射のスペクトルの分布線の研究から導き出したエネルギー量子仮説)とアルバート・アインシュタイン(光量子仮説)の理論が語られる。これらの研究の結果は、光は、粒でもあり波でもあるという二重性を示すことが分り、古典物理学では全く説明できない物理学上の歴史的な大発見となる。
 また、プランクのエネルギー量子仮説は、物理学の中に初めて、光のエネルギーは不連続に、「とびとび」に変化するものという考えを持ち込んだ、(自然現象の中にある量が不連続な変化をすることはありえないとする)従来の物理学にはない画期的なものであった。
 第2章「原子の中の世界へ」(サブタイトルが、前期量子論)で、量子論を提唱したニールス・ボーアの功績について述べられる。先ず、原子の構造について、原子がこれ以上分割できないものではなく、内部にさらに小さな構造を持つことが、1897年にトムソンが電子を発見したことで分る。次に原子の内部構造について、トムソンの原子模型からラザフォードの原子模型に発展していく経緯が述べられる。ラザフォードの実験で、プラスの電気を帯びた原子核の周囲を、マイナスの電気を帯びた複数の電子が回転しているという構造が明らかになるが、しかし、この模型にも重大な欠陥があり、この問題を27歳の若きニールス・ボーアが、「パルマー系列」の関係式に触発されて、<量子条件>や<定常状態><振動数条件>という古典物理学の常識から外れる仮定のもとに「ボーアの原子模型」を発表して解決する。これが1913年のことであった。
 実は、<量子条件>などの大胆な仮定を根拠なく持ち出したボーアの理論は欠陥だらけであったが、彼の功績は、従来の古典物理学と真の量子物理学をつなぐ橋渡しとして画期的であり、前期量子論として量子論の建設における貢献度は間違いなくナンバーワであったと本書では記されている。
 そして下記の各章が続く。
第3章「見ようとすると見えない波」(サブタイトルが、量子論の完成)
第4章「自然の本当の姿を求めて」(サブタイトルが、量子論の本質に迫る)
第5章「枝分かれしていく世界」 (サブタイトルが、解釈問題を追う)
第6章「究極の理論へ向けて」(サブタイトルが、量子論が切り開く世界)
 これらを要約するのは正直手に余るので、核心となる言葉だけ列挙してみよう。
波動関数の確率解釈><波の収縮><シュレーディンガー方程式><コペンハーゲン解釈(以上、第3章)、<電子のダブルスリット実験><不確定性原理(以上、第4章)、シュレーディンガーの猫><多世界解釈(以上、第5章)、<パウリの原理><反電子><量子宇宙論(以上、第6章)

 以前に、グレッグ・イーガンの『宇宙消失』山岸真訳(創元SF文庫、'99.8.27)を買い置いていたが、どうも量子論の知識が必要だなと思っていたところ、2014年版の「このミス」第1位になり、昨年暮れに購入した法月倫太郎の『ノックス・マシン』(角川書店)の冒頭の作品(「ノックス・マシン」)を読むと、何と量子論の用語がぞろぞろ出てくるではないか。<コペンハーゲン解釈><多世界解釈><<波動関数の収縮><シュレディンガーの猫>など。これはどうしても量子論の基礎を押さえておく必要があると思い、読みかけのまま本棚に眠っていた本書を読むことになった次第。
(『ノックス・マシン』全体については、稿を改めて感想を述べてみたい。) 

 本書は、よくは分らないながらも最後まで読み続けさせる魅力を持っている。佐藤教授が量子論の未知の世界を、初歩的な読者にも分りやすく解説していることとともに、量子論が内包する驚異の物理法則が知的興奮を呼ぶからであろう。

 例えば、ヒュー・エベレットによる多世界解釈パラレルワールド論の考え方には驚いた。荒唐無稽とも思える多世界解釈によれば、<シュレーディンガーの猫>の問題が矛盾なく説明できるというのも面白い。

 また、何といっても量子論波動関数の確率解釈が指し示す、結末は確率的にしか決定されないという世界観に非常に魅かれる。
 ヘブライ民族の一神教の宗教から始まる目的論的世界観・歴史観こそが人類史の諸悪の根源と考えると、確率論的な捉え方にある種の救済を感じるのである。
 目的論的世界観・歴史観は、ユダヤ教キリスト教、カントとヘーゲルマルクスと連綿として続いている。(フランシス・フクヤマもその延長に連なるだろう。)
 これらはすべからく進歩史観を内包した決定論に基づいているが、あるものは過去に人類に様々な災厄をもたらしてきた。壮大にして空虚、そして残酷、人類史のナイトメア。

 目的論的歴史観に関連しては、苫野一徳Blogがブルクハルトの『歴史的考察』について、ブルクハルトが「当時隆盛を極めていたヘーゲル歴史観を批判し、徹底した実証主義の精神によって歴史を見つめた。」と紹介しているのを見つけた。
 あらためてブルクハルトのこの本(左写真)をめくってみると、「世界史は世界精神の理性的で必然的な歩みであったということこそ世界史の成果でなければならない。」(『歴史哲学講義』序論)というヘーゲルの文章を引用してヘーゲル歴史観を批判し、「さらに我々は一切の体系的なものを断念する。われわれは「世界史的理念」を求めるのではなく、知覚されたもので足れりとするのであり、また、歴史を横切る横断面を示すが、それもできるだけ沢山の方角からそれを示そうとする。なによりもわれわれは歴史哲学を講じようとするものではない。」と歴史研究の心構えを述べている。
 参考までに、下記に苫野のこのBlogのリンクを張っておく。
ブルクハルト『世界史的考察』
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