「勝負の極意」浅田次郎(幻冬舎アウトロー文庫、H.9.4.25)―運がいいだけのバカ?

このところ、軽い本ばかり取り上げているが、たまには気晴らしも必要だ。ご容赦を。

 本書は、第一部「私はこうして作家になった」と、第二部「私は競馬で飯を食ってきた」に分かれていて、前者が60頁、後者が130頁の分量である。
 私は、第二部の競馬の部分が読みたくて、Amazonマーケットプレイスで、1円で買った。(もっとも、送料250円を負担したので、計251円かかったが。)本の程度は良好で、新刊と変わらない。これだから電子書籍はダメなのである。電子書籍には、古本が存在しない。紙の本がいくらでも安く入手できるのに、あえて電子書籍を求める必要がどこにあるのか。本書も、電子書籍で読めるが、価格は450円だ。(新刊で480円)
 私が電子書籍で読むのは、無料の「青空文庫」か、費用対効果を考量し、紙の本と比較して何らかのアドヴァンテージがあるものに限っている。例えば、絶版の書籍で、古本価格が著しく高価なものがそれにあたるが、こうした本は、多くの読者が望めず、出版社もペイしないため、また著作権の問題もあるのだろう、あまり存在していないように思える。

 さて本書に戻るが、第一部は関心が無かった。そもそも浅田次郎の小説をあまり読みたいとは思わないからだ。人間の感情のツボ(それが感動を誘う仕掛けだ)の巧みな押さえ方が、どうも見え透いているようで興ざめだからだ。氏の小説で読んだのは『壬生義士伝』だけ。これは、斎藤一が登場するので、読んでみたかったのである。
 余談だが、斎藤一は、新撰組でもっとも関心のある人物で、山田風太郎の『警視庁草紙』には、開化後の警視庁で、藤田五郎という名前で巡査として登場する。山田の明治物は手に入る限り読んだが、こんなに面白い読み物はそうはない。(『燈辻馬車』『明治波濤歌』『地の果ての獄』『ラスプーチンが来た』『エドの舞踏会』『明治断頭台』『明治十手架』『明治バベルの塔』など。)
 そう言えば、この作品では京都見廻組に参加し、坂本竜馬を斬った男といわれている直心影流免許皆伝の剣豪の今井信郎も巡査として登場している。ただ、斎藤一が警視庁に奉職したのは史実だが、今井については多分フィクションであろう。

 浅田の本書の第二部の競馬についての体験と蘊蓄は文句なしに面白い。茶木則雄の解説によれば、本書の親本『競馬の達人』は1992年ということだから、ここにでてくる競走馬の情報は勿論古いものだし、インターネット投票の普及(A-PATなど)や種類豊富な馬券(三連複や三連単など)の導入により、出版当時に比してこの世界も新しい局面に入っているのだが、人間にとって賭博の本能は永遠に普遍であり、その極意(らしく見えるもの)を説いたこの本は少しも古くなっていない。

 第二部は、芥川龍之介侏儒の言葉』の次の印象的な一節の引用で始まる。
「偶然すなわち神と闘う者は、常に神秘的威厳に満ちている。賭博者もまたこの例に洩れない」―。

 そして「競馬は最も科学の及ばぬゲームだと言えよう。」と結論付ける。

 ここまでは、著者の言う「哲学的な話」は、哲学的というよりは、気の利いたアフォリズムである。

 こうした不可知論は建前で、この後、著者は具体的な勝負の心構えについて、「競馬をやるからにはまず、運を支配してやろうという気概を持たねばならない。」と述べ、この意志は馬券を買う人間の最も重要な「核」であり、すべてはここからはじまるとする。
 しかし「運を支配する」とはどいうことかについて、著者は「ツイていないと感じたらピタリと止め、ツイているゾと思ったらブンブン行くのである。」と続け、読者は呆気にとられてのけぞるのである。なにコレ?という感じ。当たり前すぎて極意にも何にもなっていない。

 ナシーム・ニコラス・タレブ『まぐれ』のプロローグに本書のコンセプトについて述べるこんなくだりがある。
「これは、運ではないもの(つまり能力)のように見え、運ではないものと受け取られているが、実際は運であるもの、そしてもっと一般的に、たまたまではないもの(つまり決まっていること)のように見え、たまたまではないものと受け取られているが実際はたまたまであるものに関する本である。」と前置きし、

「そういうものは運がいいだけのバカという姿で現れる。」と宣告を下す。

 競馬でがむしゃらに勝負を張るような向う見ずな人間はみな、この万古不易のテーゼの証人である。

 浅田は”競馬で飯を食ってきた”というタイトルに恥じないように、競馬に勝つためのさまざまなスキルを次々と披露する。
 例えば「いつも同じ金額を持って出かける。」「勝負をかけるレースは、決まって早い時期の『新馬戦』か、・・・」「パドックは宝の山」「勝負気配を読みとる。」「逃げ馬が圧倒的に有利」云々。
 だが、これでは占い師か祈祷師のご託宣と同じだ。

 余談だが、私は競馬の醍醐味は大外強襲に象徴される差しであると思う。最も印象に残っているのは1973年4月29日、京都競馬場、豪雨の天皇賞でのタイテエムのクラシック初制覇であった。無冠の貴公子であったタイテエムが、最後の第三コーナーから外側を捲って、泥まみれでついにゴール前、大外強襲で差し切ったレースには涙が出るほど感激した。セントクレスピンの産駒で四白流星のタイテエムは、アカネテンリュウ以来私が心底から愛した唯一の名馬であった。
 ただ、これは醍醐味、つまり趣味の話で、著者が「逃げ馬が圧倒的に有利」と言うように、勝負の綾はまた別のところにあるのだろう。

 著者のスタンスは、競馬の不可知論と予測可能性の間を揺れ動き、人知の限界に挑戦しているように見えるが、難しいことは考えずにこの著書を軽いフィクションとして読めば、それなりに面白い。しかし本書は、私にとっては以下のとおり至って悪い本となった。

 これを読んで久しく遠ざかってきた競馬レース(つまり馬券買い)に大いに気をそそられ始めたのである。
 10年以上前に加入していた"JRA A-PAT"を利用しないまま数年経ったので、改めて”即PAT”に加入した。私も、シンボリルドルフ種牡馬スピードシンボリや戦後最大の上がり馬だったアカネテンリュウの時代(1969年ころ)からの競馬ファン、というより馬券ファンだったのだ。

 私も単に、運に翻弄される”バカ”なのであろうか。ただ、運がいいバカになるのか、運が悪いバカになるのかは、それは神のみぞ知る。