知性の限界」高橋昌一郎著(講談社現代新書、'10.4.20)その(2)−帰納法の否定の元祖はデイヴィッド・ヒュームだ

第2章「予測の限界」のメインテーマは、科学哲学者カール・R・ポパーの<帰納法の否定>と<反証主義>となるのだろう。

 カール・R・ポパーは主著である『科学的発展の論理』(恒星社厚生閣、'71.7.25)において、冒頭から帰納の問題を取り上げ、経験科学の方法論としての帰納論理をきっぱりと否定して見せる。そして、ある理論体系が経験科学に属するか否かを決定するための基準として反証可能性を採用するよう提案する。

 そもそも帰納に関する懐疑論を唱えたのは、スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームと言われている。ある科学哲学入門書の著者の言葉を借りると「ヒュームによると帰納的推論の背後には"斉一性原理"が暗黙の前提として隠されて」おり、斉一性原理とは「これまで観察したものと、まだ観察されていないものは似ているという原理である。」 伊勢田哲治疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会'03.1.10)

 伊勢田によれば、ここで斉一性原理が出てきた訳は帰納法が妥当といえるためにこの原理が必要だからだったが、その斉一性自体が枚挙的帰納法によって正当化されるので、お互いがお互いに依存する循環的正当化になっていて、いけないと言うのだ。また、枚挙的帰納法以外の根拠としては「因果法則」にうまく訴えることができればいいのだが、ヒュームはそもそも因果法則という概念自体に問題があるという。
 さらに、所詮われわれがこれまでに観察したことは有限個の観察にすぎないが、科学理論の中心になる普遍法則のあてはまる対象は、まだ観察されていないもの、観察されえないものまでも含めた無限集合でなければならないが、枚挙的帰納法の観察は有限個に過ぎず、そのような推論が妥当と言えるのだろうか、と疑問を呈する。(なお、帰納的推論には、他に「アブダクション」と「アナロジー」がある。)

 少し長くなるが、この辺を直接ヒュームの言葉(『人性論』)で見てみよう。
 ヒュームは、「顕かに、記憶乃至感官に顕れた印象から原因或は結果と呼ばれる事物の観念への推移は、過去の経験を根柢とする。」とし、次の疑問は経験が観念を生みだすのは知性によるのか想像によるのか、換言すればこのような推移をなすよう心を限定するものは理性なのか自然的関係なのかと問い、もし理性が規定するのだとすれば、それは次のような原理をもとにしてなされることになる、と述べる、
「即ち未だ嘗て経験しない事例も嘗て経験した事例に類似しなければならない。換言すれば自然の経過は如何なる時も斉一的に同じである、という原理に基づいて為されるであろう。」と述べる。
 そして理性によるか否かを明らかにするために、このような命題の論拠となりうる証明は、絶対的知識か蓋然的知識かそのいずれかから来なければならないとし、前者については「未だ嘗て経験しない事例も嘗て経験した事例に類似するという命題が如何なる論証的証明によっても証明できない」と述べる。
 また詳述はしないが、この推定は蓋然性から生じることも不可能として退けている。(『人性論(一)』第三部第6節、デイヴィッド・ヒューム著、大槻春彦訳、岩波文庫

 ヒュームの文章は、極めて含蓄があり、思考の筋道が幾重にも交錯して叙述されていて、また、ある意味文学的な滋味にも富んでいる。したがって要領よく整理するのは難しく、わたしの拙い表現力で、果してうまく説明できたか自信はない。
 本書の翻訳としては、中公クラシックの土岐邦夫などの抄訳は要領よくまとまった読みやすい訳ではあるが、如何せんサマリーとしての限界はある。その点、岩波文庫の大槻春彦による全訳は、(全部読んだわけではないが)表現も漢字も古めかしいものの、意外に明晰で味わい深い優れた訳と言える。しかし残念ながら現在は絶版となっいる。

 ヒュームが面白くて少し脱線し過ぎたが、そろそろ高橋昌一郎の本に戻ろう。
 第2章は先ず<1、帰納法パラドックスという切り口で、科学主義者、科学社会主義者数理経済学者、地震学者、哲学史家、反証主義者、帰納主義者などを登場させ、漫談風に科学的予測の可能性について、それに伴い帰納法の推論を完全に正当化できるかについて侃侃諤諤の討論が行われる。(結局、これは無理だという結論が導かれる。)
 ハイゼンベルク不確定性原理ラプラスの悪魔、効率的市場仮説、複雑系、自然の斉一性原理、ヘンペルのパラドックッス、などなど盛り沢山のテーマが出てくるが、これはほんの前座に過ぎないので、これ以上言及しない。ただ、不確定性原理については、いずれポパーに関連して論じてみたいジョージ・ソロスの「再帰性理論」に換骨奪胎といっていいほど大きな影響を与えているので、ここに少し触れておきたい。

 ハイゼンベルクはミクロの世界にある不確かさを発見し”不確定性原理”として発表している。簡単に言うと、ある物質に関する『位置』と『運動量』を測定するとき、両者を同時に一つの値に確定することができず、避けられない不確かさが残る、つまり、ミクロの世界を観測する際には観測という行為自体が対象物に影響を与えて、状態を変化させることが分かり、また量子論では物質が波としての性質が強く表れ(勿論、粒子としての性質もある)、確率解釈が主張されていて、ニュートン以来の決定論古典力学の大前提が成立しなくなってしまうというのだ。 

 次は<2、ポパーの開かれた宇宙>で、頁数は少ないがこの章の最も重要な部分である。
 著者は次のように述べる。「1959年、カール・ポパーは『科学的発見の原理』において「帰納法」と「確証原理」そのものをきっぱり否定することによって、この「反証主義」を打ち立てたのです。」
 ポパーは上に挙げられた彼の主著において、「私の考えでは、帰納というものは存在しない。たとえば”経験(それが何を意味するにせよ)によって実証”される個別言明から{普遍言明たる}理論を推論することは、論理的に容認されえない。それゆえ、理論は決して経験的に実証できない。」(上巻48頁)というような主張を繰り返し行っている。

 ここで反証主義の評価を、前述の伊勢田哲治の『疑似科学と科学の哲学』で見ることにする。
「現在では、反証主義が重要な洞察を含むことは多くの科学哲学者がみとめながらも、反証主義そのものを擁護する科学哲学者はほとんどいない。」そして、反証主義の代表的な問題点として「過小決定」を挙げている。

「過小決定(underdetermination)」「決定不全性」とも訳されるが、ピエール・デュエムという物理学者によって気付かれた理論で、ごく簡単に言えば”観察データから、それを説明する理論(仮説)が原理的に一つに決められない。”ということだ。
 前掲書で伊勢田は、のちに哲学者のクワインが、「どんな仮説でもどんな観察からも支持される。」という過激な主張にしたてあげたとし、クワインの主張が正しければ、科学において観察なんてやるだけ無駄ということになりかねない、と述べる。
 表現を変えて言えば、科学は一々の仮説のみによるものではなく、初期条件や補助仮説も含めた理論全体という構造を持ち、それが故にあらゆる部分が修正可能である、ということだ。
 本当にこの二人が意図したものか疑問はあるが、のちにデュエムクワイン・テーゼ”として論じられることになる主張である。ただし上に見たように、二人の主張の内容には差があり、クワインデュエムのテーゼを大幅に拡張した結果、物理学だけではなく科学理論全般を覆うもっとグローバルな理論となっている。 

 これは、反証主義にとって大きな脅威である。なぜなら、どんな不利な証拠も「補助仮説」の修正で処理できるなら仮説の反証は原理的にありえないからだ、と伊勢田は言う。ここで登場する「補助仮説」という概念についての著者の説明を以下に要約してみよう。
ー仮説と初期条件から観察予測が演繹できて、その観察予測が間違っていれば、仮説も間違いとして反証ができるが、実は仮説と初期条件だけでは観察予測を演繹できないことを、海王星を発見した天文学者のとった方法論に見ている。「補助仮説」と呼ばれる、非常にさまざまな暗黙の仮説群に支えられて、始めて所期の「演繹」がなりたっているからだ。
 加えて「補助仮説」の後付けの変更(アドホックな補助仮説を付け加える)さえ許してしまえば、その理論全体の反証可能性が低下し、ほとんどの仮説を救う可能性すらあるのだ。

 ただ、ポパーは前掲書で、このアド・ホックな補助仮説の導入を厳しく排除している。アド・ホックをポパー自身の言葉で説明すれば、「その時その時の都合次第で特別に仕立てて」ということである。
 ポパーは、(科学と疑似科学の)境界設定の基準として反証可能性を提示しているが、これに対するさまざまな異論の説明と反駁の中で補助仮説の議論を持ち出している。
「たとえば補助仮説をアド・ホックに導入するとか、定義をアド・ホックに変更することによって、反証を避けるなんらかの方法を見いだすことは、つねに可能」としながらも、ポパーが境界設定の基準として提案しようとしている経験的方法というものが「こうした論理的には容認できる反証回避の道を、はっきり排除する方法として特徴づけられるべきだ」と断言し、こうした反証逃れの道を非難し、退けている。(前掲書、上巻51頁)
 まあ私の印象では、ポパーのこの辺の議論はちと苦しいように思えなくもない。

 しかし、この辺は込み入っていて、なかなかうまく説明できない。こんな舌足らずな文章を読むより、本当は前掲の伊勢田の著書を読まれるのが一番よいのだ。科学哲学の著書としては大変分りやすい、優れた著作であると思う。
「疑似科学と科学の哲学」(名古屋大学出版会)

 この章では、他に「ナイトの不確実性」や「グーテンベルク=リヒターの法則」、「自己組織化臨界状態」など興味深い問題の説明があるが、これらは以前のブログに書いたのでここでは言及しない。('11.7.16、'12.2.5、'12.9.3の記事を参照)