「科学は大災害を予測できるか」フロリン・ディアク著(村井章子訳、文春文庫、'12.10.10)−本書を貫くテーマはカオス現象

著者は<まえがき>で次のように述べる。
「私は、多くの力学系に起きるカオスと呼ばれる現象に興味を持っていた。カオスとは、初期状態が同じでも結果がまったくかけ離れたものになるような、非常に不安定な現象を意味する。」
 カオス理論は、マサチューセッツ工科大学の気象学者エドワード・ローレンツがアンリ・ポワンカレの業績を20世紀後半になって復活させた理論で、「予測可能性−ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起きるか」(バタフライ効果)という1972年にアメリカ科学振興協会で行った講演のタイトルで関心を引くことになった。


 本書で取り上げられている大災害は以下のとおりだが、その大部分にカオス理論が働く。あるいは、予測不可能性については、ベキ乗則が働いているっと言っていいかも知れない。(マーク・ブキャナン著『歴史は「べき乗則」で動く』参照)


1、津波
2、地震
3、火山
4、ハリケーン
5、気候変動
6、小惑星の衝突
7、金融危機
8、パンデミック


 さて、これらのテーマはわくわくするほど心魅かれる。何しろ私は30年近くを災害親和都市(?)鹿児島で暮らしてきたからだ。そのせいか、自然災害には並々ならぬ興味と強い関心がある。
 日本で最も活動的な火山である桜島の南岳は活発な噴火により対面する鹿児島市錦江湾を間にわずか4キロの距離だ)に甚大な降灰被害をもたらしている。また霧島には一時期激しい火山活動が見られた新燃岳がある。
 一方鹿児島は頻繁に台風と集中豪雨に見舞われ続けている地域でもある。平成5年8月6日の記録的豪雨では鹿児島市内の甲突川が氾濫して(いわゆる8・6水害)市内が水浸しになり、私自身もしばらくはマンションから外へ出れなくなる経験をした。この洪水は「激特」(河川激甚災害対策特別緊急事業)の対象となり、5年にわたって合計268億円の事業費が費やされることになった。この時に、甲突川に掛るいわゆる五大石橋のうち二つが流失し(新上橋、武之橋)、残る三つの橋(玉江橋、西田橋、高麗橋)の石橋記念公園への移設などが行われた。これらの橋は、弘化2年から嘉永2年までの4年間(島津斉興の時代)に架設された貴重な文化財であった。
 特筆すべきは、九州は7300年前に破局噴火し、南九州の縄文文化を壊滅させたといわれる鬼界カルデラを始めカルデラのメッカで、鹿児島県だけでも他に姶良カルデラ、阿多カルデラなどの巨大カルデラがあり、熊本には阿蘇カルデラ、宮崎には加久藤カルデラ、小林カルデラがある。これらの存在は、川内原発の再稼働の審査の動向にも大きな影響を与えている。ただし、カルデラ噴火は、数万年〜数十万年に一度であり、火山としての視覚に訴えないことから、第一級の火山でありながら普段は火山という実感はない。
 また長崎に目を転ずると、雲仙普賢岳は平成2年11月17日に噴火し、翌年5月15日には最初の土石流が発生、同年6月3日には大火砕流により死傷者を出している。現在は九州新幹線開通のため廃止となっているが、鹿児島→福岡の航空便はこの山の上を通っていて、私も一度ならず、火砕流の痕で怖ろしいケロイドのようになっている普賢岳の山肌を見たことがある。


 私の災害経験として、古い話だが、昭和30年10月1日に発生した新潟大火は今でも記憶に鮮明に残っている。私が中学生の時だ。わが家をちょうど扇の要の位置として周囲を巨大な炎が舐め尽すことになったが、幸いわが家は被害は免れた。この大火で市内の主要部は殆ど焼失するという大きな被害を出している。焼失した主要な施設は、新潟日報社、大和・小林の両百貨店、新潟市役所、新潟郵便局、第四銀行本店、竹山病院、寺町の寺院街などであった。
 昭和39年6月6月16日に起きた新潟地震の際は、勤務していた東京の下町の銀行の窓口でテラーの職務についていて、急に気持ちが悪くなったのを思い出す。体調の不良ではなく地震の揺れのせいであった。この年の4月に就職のため東京に出たばかりだった。この時に新潟へ帰って撮った写真を2011年3月14日のブログに掲載している。(下記参照)

東日本巨大地震と、47年前の新潟地震


 この本にも紹介されているパニック映画『デイ・アフター・トゥモロウ』(ローランド・エメリッヒ監督)をiTunes Storeからダウンロードして観た。観るのはこれで二度目である。温室効果ガスの影響による地球温暖化で南極の棚氷が融け始め、突然地球(北半球)に氷河期が訪れ、この急激な気候変動で、雹や竜巻や洪水がアメリカの大都市を容赦なく襲う。
 主人公のジャックは、北大西洋の海流と海水温度を観測している海洋学者のラプソンの助力で異常気象を予測し、副大統領などに警告するが取り上げられない。そうこうするうちに、温暖化で大量に融けた氷(融けた氷は淡水になり、海水の塩分濃度を低下させる)が、メキシコ湾流の深層海流循環を停止させ、北欧、北アメリカが急速な寒冷化に見舞われることになる。
 後半、ジャックがニューヨークへ息子のサムを助けに行く行動は理解しがたいが、監督のエメリッヒが映画のマーケッティングのため、エンターテインメントの要素も必要と考えたのだろう、まあ大目に見ておこう。
 異常気象や地震・火山に人一倍関心の強い私にとっては、とにかく面白くて仕方のない映画でった。


 さて、本書の中味を一瞥してみよう。
 第1章「津波」 スコットランドの若い造船技術者であるジョン・スコット・ラッセルが最初に<孤立波>の存在に気づいたことから、以後さまざまな科学者による津波の謎への挑戦が描かれる。<孤立波>の研究にまつわる波動理論については、この書で始めて知り、大いに興味を覚えた次第。
 著者は「津波がいつ襲来するかを正確に予測することはまだできない。その最大の理由は、津波ののおおもとの発生原因を予測できないことにある。」という。本書にも取り上げられている、地震小惑星の衝突が発生原因の二つに数えられるようだ。


 第2章「地震」 ここでは、地殻構造運動がカオス現象と断ずるロバート・ゲラー東大教授の考え方が紹介される。ゲラーは地震予知は不可能とする立場に立つ。ゲラーの予知懐疑論には大いに肯けるものがある。
 ゲラーについては、マーク・ブキャナンの『歴史は「べき乗則」で動く』でも言及されている。この本でもゲラーは、地震予知悲観論者として登場する。


 第3章「火山」 先に述べた破局噴火は、2002年9月に発表された石黒耀の『死都日本』(講談社文庫)で始めて登場した言葉だ。この作品は、南九州の霧島火山帯が「じょうご型カルデラ火山の破局的噴火」と呼ばれる種類の超巨大噴火を起こすという物語で、南九州に長い間住んでいてこの作品の舞台には十分な土地鑑があり、かつ自然災害オタクの私にとっては無類の面白さで、何度も読んだ。
 地球(文明、人類)を滅亡に追い込む大災害としては、小惑星の衝突、全面核戦争と破局噴火であろうが、火山の破局噴火が最も可能性が高いのではないか。過去のトバ火山やイエローストーンのようなクラスのスーパーボルケーノが破局噴火を起こせば、人類は滅亡の危機に陥るであろう。イエローストーンについては、最近異変が伝えられ、巨大なマグマ溜りが形成されつつあると警鐘が鳴らされている。
 イエローストーンといえば、やはりローランド・エメリッヒ監督の映画『2012』を思い出す。この作品は、イエローストーンの大噴火、世界中に連続して発生する大地震、それに伴う大津波など自然災害てんこ盛りの映画だ。2012年の冬至ころ(12月21日)に人類が滅亡するという古代マヤ人の予言を元にした作品で、ノアの方舟に擬した人類救済用の巨大船舶の登場など(エメリッヒらしい)いい加減さのある作品だが、流石にCG技術を駆使した災害の映像は凄まじい。


 第4章「ハリケーン」 ハリケーン、サイクロン、台風を取り上げている。これらが、海の気温、水蒸気などの気候と大きな関係があることは、『謎解き・海洋と大気の物理』(保坂直紀著、ブルーバックス)を読めば、なおよく分かる。例えば、本章で簡単に触れられている「コリオリの力」などについては、保坂の本で詳しく説明されている。
 ハリケーンで思い出したのは、昔観た映画『キー・ラーゴ』(ジョン・ヒューストン監督、1948年)だ。フロリダキーズのキー・ラーゴ島を舞台にした作品で、ハンフリー・ボガートローレン・バコールが出演したが、何といってもギャングの親玉に扮したエドワード・G・ロビンソンの悪役ぶりが際立っていた。勿論CGなどのない時代で、いわゆる特撮でハリケーンの場面が撮られているが、とても迫力があったことを記憶している。


 第5章「気候変動」 ここでの主なテーマは、二酸化炭素の増大による温室効果ガスの排出がもたらす地球温暖化の加速についてである。ここでは書物の性格上概略の説明しかないが、気候変動問題については、ブライアン・フェイガンの著書が面白い。(『歴史を変えた気候第変動』など)
 温暖化については、本書で例えば海面温度の上昇などでカオス理論に関するローレンツのモデルが当てはまるかを検討している。どうやら、なかなか一足飛びにアジャストはできないようである。


 長くなりすぎたので、第6章「小惑星の衝突」、第7章「金融危機」については触れない。


 第8章「パンデミック」 現在進行中の感染症である<エボラ出血熱>、<デング熱>の騒動を考えながら読むと興味深い。
 感染症の流行関する詳細な歴史は、ウィリアム・マクニールの『疾病と世界史』(上下、中公文庫)が参考になる。


 なお、本書の翻訳について一言すると、冗長さのない、しかも意を尽くした優れた訳文で、何の抵抗なくすらすらと読むことができた。