「古典への道」より<中国古典をいかに読むか>新訂 中国古典選 別巻(朝日新聞社:S.44.04.15)

 百目鬼三郎氏の「読書人読むべし」(新潮社)は、前にも書いたように、私の最も信頼するブックガイドであるが、中でも<中国の古典(1)>の章は、他に例を見ない優れた四書五経などの案内として繰り返し読んでいる。

 その中で著者は、吉川幸次郎氏の「古典への道」に収められている座談会<中国古典をいかに読むか>を引用して、

「これは吉川幸次郎が京大人文科学研究所の学者たちを聞き手に、四書五経について語ったもので、とにかくこれさえ読めばいままで何も知らなかった読者も経書についていっぱしの通になったような錯覚に陥るのだからえらい。」と褒めあげ、さらに、

「吉川のこの座談が面白いのは、経書学を手際よく紹介して読者の知的好奇心をそそる点にあるようだ。」

と述べて、「古文尚書」や「易」について語った部分を紹介している。私は百目鬼氏の本をめくるたびに、同氏のいう”いままでなにも知らなかった読者”の一人として、吉川氏のこの書を読んでみたいとずっと思っていた。

 先日ふと思い立って、この書をAmazonのマーケットプレスの中古本で手に入れた。(新刊本は絶版になっている。)
 もどかしい思いでこの本の最終章となっている<中国古典をいかに読むか>を紐解き、一気に読み終えた。比類を絶する面白さである。吉川幸次郎京都大学人文科学研究所の田中謙二、島田虔次、福永光司、上山春平といった錚々たる碩学たちとの座談だが、吉川氏の縦横無尽の語り口にかかっては彼らとてほとんど学生扱いである。

 その後でそれ以外の対談(下記のとおり)を通読してから、もう一度<中国古典をいかに読むか>をじっくりと読んだ。
(1)中国と日本文学(井上靖との対談)
(2)中国文学談義(中野重治との対話)
(3)中国文学の世界性(桑原武夫との対談)
(4)中国古典と小説(石川淳との対談)
(5)中国古典と現代(石田英一郎との対談)
(6)中国の学問と化学精神(湯川秀樹との対談)
 これらの対談集も面白いのだが、ここでは言及しない。

 さて、この<中国古典をいかに読むか>だが、サブタイトルに、―五経・四書を中心に―とあり、吉川氏の読書経歴を基に座談が進んで行く。
 最初に吉川氏は「漢文というものは独習できる」と述べ、その理由の一つとしてフランス語やドイツ語などと異なり、漢文は「単語の数が極端に少ない」と言う。その場合、氏は語弊があると言いつつも、漢字の一字を一単語と想定している。中国の文章で使用するのは五千字、ことに常用するのは三千字で、あとの二千字は固有名詞か大変特殊な形容詞などであるとのこと。
 例えば、漢文を読むための日本の代表的な漢和辞典である「漢辞海」第三版(三省堂)に収録されている親字が一万二千五百字であることを考えれば、吉川氏の指摘する常用三千字というのは一つの言語を学習するための語彙としては極めて少ないと言えよう。

 かつての漢文の学習方法に関して吉川氏は、明治までの人がひじょうによく漢文が読めた訳は、子供の頃漢学塾で、四書の素読かなにかならうが、人からならうことはそれだけで、あとは自分の力で多読をした結果であると指摘している。

 それから本題に入り、まず吉川氏は自分自身が儒者であるとの立場から、儒学の意味について述べる。それは、宗教的実践や哲学的実践の方法とは異なり、必ず書物(古典)を読んで、しかも思索するということだ、という。儒学の指示する古典とは決まっており、それが即ち、<五経>であり、孔子が二千五百年前に永遠普遍な書として選定しておいいたもので、五経の補助として四書がある。五経とは、『易』『書』『詩』『礼』『春秋』で、四書とは、『論語』『大学』『中庸』『孟子』である。(なお吉川氏が指摘しているように、朱子以前の考えによれば、経書とは五経のことで、四書は宋の儒者によって選択されたのである。)

 次に、儒学をやることと、シナ学をやることの違いについてに論議が向かう。この辺には重大な問題提起が含まれていると思うので、少し詳しく引用してみる。
 吉川氏によれば、「シナ学は、私はだいたい事柄の学問だと思います。ことばを通じて媒介されている事実、その事実の意味を追求するのがシナ学で、大正年間からおこった中国研究の重要な方向です。しかし、それは歴史学だと私は思います。」 
 それに対し、「私自身はそれだけが学問であるのではないと思っております。もっと古典の言語に即した学問があってしかるべきだと思う。言語の媒介する事実はたしかに一つの歴史的事実ではあるが、表現となっている言語そのものも重要な歴史事実である。」
 吉川氏は、要するに前者は「歴史学」であり、後者は「注釈」であると言い、後者の儒学的方法、即ち媒介せんとする事柄がわかれば、ことばは捨ててしまうのではなくその事柄がいかに表現されているか、その表現した人間の話者の心理、あるいは著者の心理、それを追求するという、そうした本の読み方のうえに成り立つ一種の人間の研究、そうした学問方法の実践がひじょうに細密におこなわれているのは、やはり中国の書物ではないか、と結論づける。

 この座談では、以上のような方法意識のうえに立って、五経と四書について細密な議論が行われる。その際、前漢後漢三国時代六朝時代の書いた数限りない注釈と、唐の時代に行われた再注釈(疏)が古注であり、大体宋の人、おもに朱子を中心に書き直された新注との対比で議論が進み、注意すべきは、新注を生みだした宋儒がひとつの哲学体系を生み出したと見られことである。朱子のとなえた<理気二元論>、<陰陽五行>、<性即理>などはまさしく哲学そのものである。

 吉川氏は、新注に対してはやや批判的で、「新注の書かれた時期は、古代学についての知識が必ずしも十分ではない」と疑問を呈し、次に宋学者は大体において哲学者ですから、古代の物質生活にたいする注釈が弱い。それから最も大きな不安としては、自分の哲学体系にむりに引きつけて経書の言葉を解釈している。」
 宋学者とは主に朱子のことであり、江戸幕府朱子学を官学として幕藩体制の思想的基盤としていたが、それに対し古注から出発して経書を読み直す活動が先ず日本で起こり、そのはじめは伊藤仁斎であり、次が荻生徂徠であるという。

 こうした議論を踏まえてそれぞれの「経書」の詳しい読み方や注釈書について相当専門的に述べられていく。私自身こうした注釈書についての知識は全くないが、経書に関する複雑怪奇な考証の世界に入り込んでいくと、まるでよく出来た推理小説かなにかを読んでいるかのような知的興奮さえ覚えるのである。特に、『尚書』五十八篇のうち二十五篇が魏・晋のころの偽作であるという考証は、百目鬼氏の本にも書かれているが、さらに『偽古文尚書』に対する孔安国の注(「尚書孔安伝」)さえ後世の偽作であるという話になると、頭がこんぐらかるほど奇々怪々、まことに興味津津で興趣は尽きない。

 また座談の最後の方で、吉川氏は「ぼくは経書のなかでひろく日本人が読むべき本は、けっきょく『論語』に限定されるのではないかという考えをもっています。」 という私のような怠け者には嬉しいことも述べている。

 各経書についての論議への言及は止めるが、この本を読んだことをきっかけに経書や中国の詩に強い関心が湧いてきて、例えば漢文を読むために加地伸行氏の「漢文法基礎」(講談社学術文庫)を、詩では「杜甫詩選」黒川洋一編(岩波文庫)、「杜詩」鈴木虎雄訳註(岩波文庫)、また「杜甫ノート」吉川幸次郎新潮文庫)を少しずつ読み始めている。
 杜甫の詩をこれほどまとまって読む機会は初めてで、その詩の世界の豊饒さと人間臭さ、生き生きとした感情表現、そして神技とも言うべき言葉のたくみに、言うに言われぬ感銘を覚えつつある。杜甫についてはいずれ語ってみたい。