「見知らぬ乗客」パトリシア・ハイスミス 青田勝=訳(角川文庫、H10.9.25)―これはま紛う方なき現代の”罪と罰”だ

パトリシア・ハイスミスは、前回『11の物語』を取り上げたが、続いて最初の長編である本書を読み、再び唸ってしまった。解説(新保博久)によれば、1950年、29歳の時にニューヨークのハーパー社から刊行されたとあるが、ハイスミス怖るべしである。交換殺人という設定は、彼女のこの作品をもってその嚆矢とするようだ。(新保博久の解説のよれば、交換殺人というトリックは、別に全く独自に、ニコラス・ブレイクが『血ぬられた報酬』で開発し、その後フレデリック・ブラウンなどが手を変えて描くようなったそうである。)
 この小説ミステリー仕立てであるが、謎ときが主眼ではなく、登場人物の心理の動きに重点が置かれていて、どちらかと言えばクライムノベルあるいは純文学に近い作品と言えよう。(ドストエフスキーの『罪と罰』だってミステリー仕立てなのだ。)

(以下は、ネタバレを含む)

 周到なプロットと殺人を冒す2名の登場人物の綿密な性格描写、犯行後彼らが自ら手を染めた殺人という人間にとって最悪の行為によって、徐々に人格が蝕まれ、崩壊してゆく心理の過程を執拗に追って行き、遂には思いがけない結末に至る重厚で巧みなストーリー、そしてドストエフスキー級の圧倒的な筆力、どれをとっても感嘆の溜息のでる仕上がりとなっている。作品が生まれてからすでに60年以上経っているが、少しも古さを感じさせないのは見事だ。
 性格異常者であるブルーノーも極度に悪辣というのではなくどこか憎めない存在で、彼のたどったあっ気なくも悲劇的な結末は一抹の哀れを誘う。

 交換殺人に至るそれぞれの殺意の必然性が上手く書き分けられていて不自然さがないのは立派だ。特に心中の様々な弱みを衝くブルーノーのストーカー的な迫り方に心理的に追い詰められて行き、ガイが切羽詰まって殺人を行う筆の運びは実に巧みだ。

 この作品は、現代版”罪と罰”である。主人公ガイの罪はたまたま(*)予期せぬ契機が重なって起こり、罰は心の内と外から加えられる。彼は、増幅していく自責の念から次第に人格が崩壊して行き、その結果彼の外の世界(結婚生活や知人との関係、仕事を通じての社会的立場など)が瓦解に向かう。
(*)レナード・ムロディナウの『たまたま』(ダイヤモンド社、'09.9.17)に次のような一節がある。
「人生の輪郭は、どう対応するかで運命が決まるいくつものランダムな出来事によって、キャンドルの炎のようにたえず新しい方向に移ろっていく。だから人生は予測しがたくもあるし、解釈しがたくもある。」(同書8頁)

 周知のとおり、ヒッチコックがこの作品を映像化したのは、小説発表の翌年の1951年のことである。まだ無名に近いハイスミスの作品の映画権を直ちに買いあげたヒッチコックの慧眼に驚く。ヒッチコックをしてこうした行動に走らせた強い動機は、無論”交換殺人”のアイデアであろう。列車でのガイとブルーノーとの出会いから、第1の殺人までは、ガイが建築家ではなくテニスプレイヤーとなっていることを除けばほぼ原作どおりだが、以降の展開は小説とは全く異なり、いわゆるヒッチコック流のサスペンス・タッチ仕立てである。まあ、交換殺人というアイデアと主要登場人物のキャラクターと名前(ブルーノーだけは一部変えられている)だけがハイスミスの作品と共通しているだけで、一篇の作品としては全く別物と言っていいだろう。小説はハイスミス特有の不条理で後味の悪い仕上がりだが、映画はハッピー・エンドとなっている。