「戦略の本質」野中郁次郎他(日本経済新聞社、'05.8.5)−<スターリングラードの戦い>に見る良い戦略と悪い戦略

本書は、二十世紀に起こった様々な戦争における大逆転の戦略がどのようなものであったかのケーススタディである。(これを見ると、二十世紀はつくづく戦争の世紀だったのだな、とあらためて思う。)
 では、どのような戦争が取り上げられたのか。

毛沢東の反「包囲討伐」戦―矛盾のマネジメント
バトル・オブ・ブリテン―守りの戦いを勝ち抜いたリーダーシップ
スターリングラードの戦い―敵の長所をいかに殺すか
朝鮮戦争―軍事合理性の追求と限界
第四次中東戦争サダトの限定戦争戦略
ベトナム戦争―逆転をなしえなかった超大国

 そして、最後に、
・戦略の本質とは何か―10の命題
の章が置かれている。

 <まえがき>で共著者の中心的存在である野中郁次郎はこの書のコンセプトを次のように述べる。
 戦略の本質が最も顕在化するのは逆転現象ではないかという仮説に基づき、「圧倒的に不利な状況で逆転を成し遂げるときに、戦略の本質が最も顕在化する。」として、日本以外の戦いの歴史のなかから、戦略の本質を示す「大逆転」のケースを取り上げたとしている。

 ここでいう戦略どう捉えたらいいのか。大逆転以外の、いわゆる正規の戦略は攻防いずれの側でも失敗している。
 まず、最後に大逆転を成し遂げるに至る攻撃を受けた側には、一時は滅亡寸前の危機的況が訪れており、それは当初の戦略の失敗ないし不在を証明している。他方、攻撃する側も勿論基本的な戦略に基づいて作戦を開始したにもかかわらず、大逆転を蒙りその戦略は破綻してしまう、それはむろん戦略の失敗である。
 一方、大逆転の戦略と言っても、敗北ぎりぎりの段階まで追い込まれ、生き延びるための窮余の一策として乾坤一擲の勝負に出たもので、ここに挙げられたものはたまたまうまくいった事例であり、これらに十倍する不成功事例が存在しているはずだ。逆転がいつも成功する筈はない。
 いずれにしても戦略を考える人間の思考回路に、何か超えることのできない本質的な隘路があるのだろうか。 

 それに続く以下の文章には、その解答のヒントが含まれている。
 日本で「流行している戦略論は分析的な戦略策定に終始していた。・・・戦略とは、何かを分析することではない、本質を洞察してそれを実践すること、認識と実践を組織的に綜合することであるはずだ。」そこから導き出されるのは「戦略を左右し、逆転を生み出す鍵はリーダーの信念や資質にあるのではないか」という仮説であるとし、「日本のリーダーには徹底的にリアリズムが欠落していると同時に、理想主義も貧困である」と結論付ける。  

 つまり、失敗した正規の戦略はすべて分析的な戦略策定であり、そこには戦略立案者の希望的な状況分析、見たいものしか見ないという人間心理の盲点、知的人間の陥りがちな理論的整合性を求め過ぎる傾向、立案者が必ずしも軍事技術に練達していないにもかかわらず、組織の頂点に位置することから往々にして抱くに至る誤った全能観など、立案された戦略がとことん汚染されていたのである。
 史上稀に見る軍事の天才、アレクサンドロスハンニバルカエサル、チンギス・ハンなどは、卓越した洞察力に基づくリアリスティックな戦略立案とそれを率先して実行する恐るべき行動力が結びついていたのだ。
 他方、ヒトラースターリンも絶大な権力を有していても、洞察力に欠け、状況を見誤り、軍事能力の未熟から間違った戦略に走り、政治的地位がそのまま軍事的能力に反映するもの錯覚・過信して軍事作戦に干渉し、また自身の政治的ヘゲモニーを軍事に優先させ、その結果当初の戦略は蹉跌し、自軍に膨大な損害を招くことになった。

 本書で挙げられた事例の中で、ここでは独ソ戦、いや第二次大戦そのものの帰趨の大きな転換点となったスターリングラードの戦い」について考えてみる。

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 ところで少し寄り道をするが、二十世紀を代表するソ連邦の大作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチは、いわゆる戦争交響曲三部作のうち、交響曲第7番レニングラードに続いて交響曲第8番を、激戦の続いていたたスターリングラード攻防戦で、ソヴィエト軍パウルス将軍麾下のドイツ第六軍の包囲殲滅に成功し、ソヴィエト国内の全戦線でナチス・ドイツとの戦いが有利に傾き始めた1943年の夏、僅か2ケ月でに書き上げた。かつてはこの交響曲は、当時の独ソ戦の戦況を反映し、<スタ−リングラード>という標題で呼ばれていた。 

 いかし、独ソ戦の戦況の好転の時期にもかかわらず、この作品の悲劇的で暗い点が問題視され、1948年2月10日の中央委員会の決議、いわゆるジダーノフ批判の対象となり、ショスタコーヴィチ交響曲第8番と第9番が、プロコフィエフ、ハチャトゥーリアンなどの作品とともにとともに、「形式的ゆがみと、反民主主義的傾向をとくに明瞭に表している」として非難されるに至った。もっとも、ジダーノフ批判は、もともとはヴァーノ・ムラデリのオペラ「偉大な友情」を見た政府高官(スターリンのことか?)の逆鱗に触れ、この作品への非難を目的としたものだったが、そのオペラが失敗した原因として、作曲家がたどってきた「形式主義的」傾向、現代のソビエト音楽を完全に堕落させた傾向が指摘され、決議の草稿のなかで特定の作品名がこの傾向の典型として挙げられたものなのである。(『ショスタコーヴィチ ある生涯』ローレル・E・ファーイ著を参照)

 第8交響曲は、ショスタコーヴィチの全15曲の交響曲の中では最も深遠で力に満ちた傑作で、特に第3楽章クライマックスから第4楽章の冒頭に至る凶暴な響きは、まさに血も凍るような恐ろしさだ。それに続く第4楽章の悲痛なパッサカリアは静かな恐怖が支配していて、聴く者の心を強く掴んで離さない。
 私見だが、この作品の演奏では、ムラヴィンスキーレニングラード・フィルの1982年のライブ録音が傑出している。ショスタコーヴィチの全交響曲の多くの指揮者による演奏の中でも、まず第一に指を屈する名演であろう。

 ショスタコーヴィチについては稿をあらためて考えてみたい。

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 スターリングラードにおける戦闘や作戦の経緯については、つとに知られているところであるし、この書でも極めて要領よく、簡潔明瞭に分析がなされていて間然とするところがないので、ここでは措いておく。
 スターリングラードの戦いについては、イギリスの戦史作家アントニー・ビーヴァーのスターリングラード 運命の攻防戦1942−1943』朝日文庫、'05.7.30)が詳しい。この作品で著者は、膨大な資料を駆使し、巨視的と微視的の視点を巧みに交叉させ、この戦いの巨大な全貌をくっきり浮かび上がらせてくれる。戦史物としては稀に見る傑作である。

 
 ソ連軍の勝因として『戦略の本質』で指摘されているのは、一つは<視点の還流ー前線と司令部の対話>、つまりジューコフやワシレフスキーが頻繁に前線を訪れ、戦略の策定と実行の可能性について、最前線の将校と常に綿密な検討を加え、情報と視点の還流が行われていた、ということであり、二つには、ドイツ軍もソ連軍も内部に二重の指揮系統をもつ軍隊でありながら、ソ連軍は戦闘組織としての軍と、政治組織としての共産党が並列的に組織されていて、現実に問題はあっても全体としては軍と党との相補関係が維持されていた点で、ことごとに不協和音を立てていたドイツ軍の国防軍ナチス親衛隊が指揮を混乱させていたことに比して優位にあったとしていることだ。

 
 そして三つ目は、ヒトラーが、自分自身の軍事的識見・能力を過大に評価し、軍事合理主義に立脚したプロイセン陸軍の伝統を継承した国防軍の将軍たちの建策・建言に一切耳を傾けず、しばしば作戦・戦闘レベルの攻略目標や戦力配分の変更を重ねたことだ、と指摘する。
 
 それに引き換えスターリンは、当初は自分の軍事的直観に依存し続け、作戦・戦略上の失態を演じたが、1942年夏ころから、ようやく軍事専門家を信頼するようになり、将軍たちの意見具申を受け入れ、作戦の企画立案と実行において、かれらにより大きな役割を果たさせるようになった。そして、軍事作戦が果すべき政治的役割については自ら決心し、命令を下したのだ、と本書は述べている。
 ここで軍事専門家とは、スターリン取り巻きで、軍事的能力に疑問のあるヴォロシーロフなどではなく、ソ連邦随一の戦略家で最高司令官代理のジューコフであり、参謀総長のワシレフスキーのことを指す。

 さて結果的に勝利を獲得したソ連軍だが、1937年にはスターリンの強い猜疑心などからトハチェフスキーを始めとする赤軍将校の大量粛清が行われ、ヒトラーによるバルバロッサ作戦が開始されるころには、実は壊滅的な状態に陥っていたのであった。つまり、バルバロッサ作戦でドイツ軍がソ連に侵攻を行った当初、スターリンには戦略はなかったか、あるいは、意図的な戦略不在の状況にあったとも言える。

 ここで、ソ連の軍事戦略思想の根幹を端緒に遡って考えてみるのも無駄ではないだろう。
『戦略の形成』(ウィリアムソン・マーレー他編、中央公論新社、'07.11.10)下巻の第16章で、筆者のアール・F・ズィムケ(ジョージア大学教授)は、ソ連の戦略について、
「ウラミジール・レーニンがその基礎を築いたのは、彼が1915年に『戦争は他の手段による政治(すなわち、階級的利害の追求)の延長に過ぎない』と結論付けたときである。」と述べている。

 
 レーニンもまたクラウゼヴィッツの申し子である。クラウゼヴィッツの有名なテーゼ、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続に他ならない。」(『戦争論』第一部)について、ズィムケは、クラウゼヴィッツが戦争を政策実現のための手段のひとつとみなしたのに対し、レーニンは戦争行為を単なる外交政策よりも更に上位に引き上げたとしている。
 コンドレーザ・ライスによれば、マルキシズムは、階級闘争の観点から人間の活動全体を説明しようとするものであり、軍事戦略を考える場合でも戦争と平和をはっきりと区別したり、軍隊を社会から分離したりする考え方をとらない。」のである。つまりソ連の戦略は、当初から、マルクスレーニン主義理論の総本山としての枠組みに立脚し、共産党が生み出すべきものと規定し、階級闘争の観点から、戦争・政治・社会を一体のものとして考える中で位置づけられていたのである。(ライスの主張は以下の論文による。『現代戦略思想の系譜』ピーター・バレット編、22章<ソ連戦略の形成>:ダイヤモンド社

 ズィムケの引用はレーニン全集からで 、具体的にはどの論文かは分らない。例えば、マルクス主義の戯画と「国主義的経済主義」について』(1916年)の中で、レーニン「戦争は政治の続きである。だから、戦争のまえの政治を、戦争へと導いてその目的をとげる政治を、研究しなければならない。」と述べており、同様の考えを読みとることができる。
 このレーニンのテーゼこそが、一貫してソ連軍事思想の根幹をなすものであると言える。

 1917年11月7日(ロシア暦では、10月25日)のいわゆる10月革命で、軍事革命委員会委員長のトロッキーに指導された軍事クーデターによりボルシェビキペトログラードを占領し、以後権力の内部抗争や白軍との内戦に突き進んで行く。1918年3月3日の、ドイツとの屈辱的なブレスト=リトフスク条約締結後、わずか8ケ月後の11月に第一次世界大戦が休戦したことでこの条約は失効し、白軍との内戦とボルシェビキ政権内での内訌が激しさを増す。すなわち、トロッキースターリンの対立である。
 その間に、新しい軍事指導者として、ミハイル・トハチェフスキーとミハイル・フルンゼが台頭してくる。軍事改革を緒につけたフルンゼが若くして死亡し、その後権力を握ったスターリンが、曲折を経て、1937年に赤軍の高位の指揮官をほとんど粛清してしまうが、トハチェフスキーは、その中でも最大かつ最も象徴的な人物であった。

 スターリンは、レーニンのテーゼをより極端化している。ズィムケは、ロシア内戦の教訓は、ヨシフ・スターリンの世界観を形成するにあたってとりわけ重要とし、
「第一に、ロシア内戦は外界のことを認識する際に謀略に満ちた本能をボリシェビキ政権に植え付けた。第二に、スターリンは、軍事専門家はソヴィエト政権が厳重に監視すべき危険な集団であるとの結論を導き出した。第三に、この直後に誕生するスターリン政権は、ソ連の将来の防衛における政治的かつイデオロギー的性質を強調するようになった。最後に、どのように戦争を遂行すべきかという問題についての政軍間の対立が、大部分がスターリンから庇護を受けていた政治的将軍と最低限の軍事的専門性しか持たない者との間に深い溝を生むことになった。この溝はスターリンが1937年に有能な者をほとんど粛清し尽くすまで、赤軍内部に存在し続けたのである。」と述べている。

 バルバロッサ作戦は、その後間もない1941年6月に始り、1942年6月28日、パウルス将軍率いる第六軍を先鋒とするドイツB軍集団がクルクス方面からドン河の大湾曲部へ向かって攻撃を開始したのだ。第六軍は、ドン川西岸を制圧した後スターリングラードに迫る。

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 たまたま『良い戦略、悪い戦略』リチャード・P・ルメルト著(日本経済新聞出版社、'12.6.22)を読んでいて、はたと思った。
 戦略には良い戦略と悪い戦略があり、この基準で分けて考えればいいのだ。
 先ず著者は、戦略策定の肝として、「直面する状況の中から死活的に重要な要素を見つける。そして、企業であればそこに経営資源、すなわちヒト、モノ、カネそして行動を集中させる方法を考えることである。」と述べる。戦略の要諦は、まさにこの短い説明に尽きているのではないか。この基準に当てはめれば、戦略の良し悪しは容易に識別できる。
 この部分は、前に引用した野中郁次郎の戦略の捉え方と共通している。大切なところなので、煩をいとわず再掲する。
「戦略とは、・・・本質を洞察してそれを実践すること、認識と実践を組織的に綜合することであるはずだ。」
 戦略の本質は、軍事も企業経営も同じ原理だということが分る。

 ルメルトは悪い戦略とは、単に良い戦略の不在を意味するのではなく、悪い戦略をもたらすのは、誤った発想とリーダーシップの欠如だと看破する。そして悪い戦略の四つの特徴を示す。
・空虚である。
・重大な問題に取り組まない。
・目標を戦略ととりちがえている。
・まちがった戦略目標を掲げている。

 言い換えれば、悪い戦略とは、解決すべき真の問題点を理解せず、自分の達成したい誤った目標をまず設定し、作戦をそれに合わせるために現状とそれに携わる人間たちの心理を無視し、希望的・空想的に都合よく立案し(畢竟空虚な戦略となる)、それで自己満足することである。そして、このような愚昧なリーダーに限って組織における自身のヘゲモニーが冒されること過敏で、真の実力あるスタッフを恐れて遠ざけ、オベンチャラをいう無能な人物(スターリンにおけるヴォロシーロフ)を側用人として手元に置く。 

 そして、良い戦略の基本構造は、次に三つの要素から構成されると言う。
1 診断―状況を診断し、取り組むべき課題をみきわめる。良い診断は死活的に重要な問題点を選り分け、複雑に絡み合った状況を名歌に解きほぐす。
2 基本方針―診断でみつかった課題にどう取り組むか、大きな方向性と綜合的な方針を示す。
3 行動―ここで行動と呼ぶのは、基本方針を実行するために設計された一貫性のある一連の行動のことである。
 

 言い換えれば、良い戦略とは現実(現場)の状況を洞察力を持って見極め、その状況に則した対策(戦略)を組み立て、迷わず実行することである。

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『戦略の本質』で野中らは、第8章で「逆転を可能にした戦略」として、<戦略の構造とメカニズム>と<逆転を可能にした戦略>に分けて、詳細に分析しているが、やや後知恵を思わせる理路整然さである。また、それに続く最終章の「戦略の本質とは何か」では、命題別に戦略の本質に迫るとして、10に分けて説明する。
 例えば、命題1では<戦略は「弁証法」である>として、特に毛沢東の遊撃戦の概念を引き合いにして解明する。しかし、ハンニバルもチンギスハンも「弁証法」を理路整然とした哲学的概念として知っていた筈はない。

 重ねて言う、アレクサンドロスハンニバルも、カエサルもチンギス・ハンも教科書で戦略を学んだ訳ではあるまい。それどころか、現在見るような書籍などなかっただろう。しかし、彼らは人類の歴史に残る比較を絶する戦略家である。これをどう考えたらいいのだろう。彼らの戦いの足跡を見れば、戦略家としての資質はどうやら天性のものとしか言いようがない。