「水滸伝」上中下、駒田信二訳(平凡社”中国古典文学大系”'43.11.5)ー支那人間における食人肉の風習(桑原隲蔵)とは

宮崎市定水滸伝』(中公新書'72.8.25、以下”宮崎『水滸伝』”という)のまえがきで「私は現今の中国を理解するためにも水滸伝は必読の書だと称したい。」と述べているが、宮崎がこの本を書いてから40年経った現在でも、事情は少しも変わっていないだろう。
 前回のブログで、『水滸伝を「久しぶりに読んでみたくなった。」と書いたが、早速、駒田信二訳の120回本を、図書館から借りて読んだ。(なお、回とは、章のこと。)

 現今の中国の人と社会の本質を理解するためには、水滸伝と、以前少し触れた『中国の闇』何清漣著(扶桑社、'07.11.30)が必読の書であると思う。後者については、いずれ詳しく考えてみたい。

水滸伝は、実に巻を置くあたわざる面白さであった。駒田訳は120回本で、100回本に田虎と王慶の反乱の平定の物語が付け加えられたものである。訳は、正統的で読みやすく優れたものだ。また読み進める際には、前回言及した成毛眞「中国人は命に対する考え方が根本的に違う。」という言葉を常に念頭に置くことになった。

 ところで、中国人と中国社会の基層にあるものとして、前述の宮崎『水滸伝で、著者は二つの興味ある指摘を行っている。 
 一つ目は、桑原隲蔵の論文を引用して「古来中国人の一部に、人肉を食う習俗があった」と指摘していること。
 二つ目は、「生きた人間の肝を取り出して死人の霊を祭る」という記事がしばしば現われてくるという指摘である。桑原博士は下記論文で、「心肝は生命の根源として、支那人一般に信ぜられて居る。」と述べているのが注目される。

 それとは別に三つ目として指摘しておきたいのは、中国四千年の歴史に数多く刻まれ続けてきた大量虐殺というAtrocitiesである。これについては、前回触れた『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか』石平著(ビジネス社、'12.11.22)を参照してほしい。

 ところで、上記に引用した桑原隲蔵博士の論文は支那人間に於ける食人肉の風習』で、青空文庫で読むことができる。
 本論文の中で、食人の記事については、次の記述を例として開列している。(桑原論文と実際に記述のある回数が違っているが、桑原の勘違いなのか、当時と今とでは編集の仕方が異なるのか、あるいは青空文庫の入力間違いなのか分らない。)
第11回:朱貴が自分の居酒屋で、物持ちの旅人を始末して、赤身の肉は塩漬、脂身は煮て灯油に使う。<桑原論文では第10回>
第27回:張青夫婦が人肉入りの肉饅頭を売る。また人肉調理場の有様が描かれる。<桑原論文では第26回>
第36回:宋江一行が、掲陽嶺でしびれ薬を呑まされて、人肉調理場へ運ばれ、危ういところを李俊に助けられる。<桑原論文では第35回>
第43回:李逵が李鬼を殺して、その肉をお菜にして飯を食う。<桑原論文では第42回>
の記述を例示している。

 ただし、桑原博士の言う支那人には、金(女真)、元(蒙古)も含まれているようだ。金の元帥の紇石烈牙忽帯が一部の将に人肉を食べさせたという記述が見られる。
 これに関連して、博士は「西のチベット人、北の蒙古人、東の朝鮮人、南の安南、占城諸国民の間にも、嘗て Cannibalismが行われている證跡歴然たるものがある。」と述べていて興味を引かれる。

 桑原博士は、人肉食の動機として、次の5つを示し、具体的な例を挙げている。
1)飢饉の時
2)籠城して糧食尽きた時
3)嗜好品として
4)憎悪の極、怨敵の肉を食う
5)医療の目的

 大正13年に書かれた本論文の末尾近くで、桑原博士は「日支両国は脣歯相倚る間柄で、勿論親善でなければならぬ。」と述べた上で、次のような深刻な指摘を行っている。よく考察してみる必要のある言葉だ。
「日支の親善を図るには、先ず日本人がよく支那人を了解せなければならぬ。支那人をよく了解するためには、表裏二面より彼らを観察する必要がある。經傳詩文によって、支那人の長所美点を会得するのも勿論必要であるが、同時にその反対の方面、即ちその暗黒の方面をも一応心得置くべきことと思ふ。食人肉風習の存在は、支那人にとって余り名誉のことでない。されど厳然たる事実は、到底之を掩蔽することを許さぬ。・・・」
 これを読むと、昔の知識人は、現在マスコミを中心にはびこっている<ふわっとした理念的リベラリズムに毒されることなく、透徹した洞察力に富み、冷徹なリアリズムの持ち主であったことがよく分かる。

 そして、翻ってわが国のことに筆が及び、以下のように述べている。
「兎に角日本人が飢饉の場合、籠城の場合に、人肉を食用したといふ確証が見当らぬ。まして嗜好の為、憎悪の為、人を啖った事実の見当らぬのは申す迄もない。太田錦城が、日本では神武開闢以来、人が人を食ふこと見当らざるは、我が国の風俗の淳厚、遠く支那に勝る所以と自慢して居るが(『梧窓漫筆』後篇上)、この自慢は支那人と雖ども承認せねばなるまい。」
 太田錦城は江戸中期の著名な儒学者で、最後は加賀藩に仕えた人物である。

 さて、そもそも水滸伝の作者は元代の施耐庵、あるいは明代の羅貫中といわれ、また前者の原作を後者が改訂したともいわれ、いま一つはっきりしない。いずれにしても今見るような形(70回本、100回本、あるいは120回本)が成立したのは明代末といわれる。
 さて水滸伝を読んでいて違和感を覚えるのは、第71回以降の物語の急転回である。むしろ物語の根本の変質と言っていい。

 この点については、宮崎『水滸伝において<水滸伝文学の根本問題>と題して、次のような見方が示されている。
「ところで長い間、反体制の態度をとって、梁山泊に立て籠って政府軍と戦ってきた宋江集団が、急に朝廷に帰降して、誠忠無比の働きをするという物語の筋は、何としてもちぐはぐの感を免れない。」
 そして明末清初の金聖嘆の見解、すなわち第70回までが元の施耐庵の原作で天下第一の名文だが、それ以後の続編は明の羅貫中が継ぎ足した偽作だと断じていることを踏まえて、、
「我々が平心に読んだところでは、現存の百回本に関する限り、前後相照応する部分もあり、通じて一人の手に成ったものであることはほぼ間違いないと思われる。それにもかかわらず、第七十回を境として、前と後との間には本質的な色合いの相違があって、互いに弱めあい、互いに傷つけあっている感じを拭い去ることができない。」と述べているが、委曲を尽くしていて、この問題に関する限り、この解説以上に出るものはないだろう。

(注)桑原隲蔵(くわばらじつぞう、1871.1.27〜1931.5.24)は東洋史・中国史碩学で、京都帝国大学教授。桑原武夫の父君であり、また弟子に宮崎市定がいる。