「本は10冊同時に読め!」成毛眞著(三笠書房)―本を読んでもサルになるかも・・・

要は昔からある読書のすすめ、といったたぐいの自己啓発本で、中身は薄い。自分の体験を無批判に披歴して読者に読書の効用を説く。サブタイトルは<本を読まない人はサルである>という噴飯もの。まあ、あまり真剣に論評するほどの本でもないだろう。

 しかし、読んでいて”おやっ”と思う箇所もあった。例えば、「最初にはっきりといっておこう。みんなと同じような家に住み、みんなと同じ店に行って同じものを食べ、みんなと同じ場所に旅行する人は、いつまでたっても「庶民」である」
 著者が言う庶民とは、低所得階級の人のことである。この言葉に著者の人間観の根本が現れていて愕然とする。
 著者の頭の中では、人は高所得階級か、低所得階級に分れており、どちらの階級に属するか、その境目になるのは、本を読んでいるか読んでいないかの違いだそうだ。
 こんなことを平気で言う神経は、とてもまともとも思えない。

 35歳で日本マイクロソフト(株)の社長になったというのが著者の自慢だ。その理由を、「徹底して他の人が送るような生活をせず、他の人と同じような場所に行かず、他の人と同じような本を読まなかったからだ。」と述べているが、極めて短絡的で、読者に誤解を与えるものだ。著者が若くして社長になったのは、経営者としての資質と努力のたまものだろうから、自分の読書術に箔をつけるための安易な理由づけはおやめになった方がいい。

 中国について言及している箇所では、『水滸伝』に、漢王朝の時代にはものすごい数の人肉を食べる人間が出てくると引用した上で、「中国人は命に対する考え方が日本人とは根本的に違う」と述べる。こんなことは、『水滸伝』を引き合いに出すまでもなく、毛沢東中国共産党の自国民に対する大量虐殺の死屍累々の歴史を見ればつぶさに分る。
 なお『水滸伝』の時代背景は、北宋末期である。著者が漢王朝と言っているのは、多分漢民族の王朝のことだろうが、やや紛らわしい。また、かつて中国全土を支配していた満州民族も蒙古民族も残虐な点では漢民族と変わるところはないと思うが。

 毛沢東と並ぶ殺戮の大立者で明朝末期の反乱軍の首領、張献忠の四川での大虐殺は、(事実とすれば)慄然とするものがある。日本の歴史にはこのような途方もない人間は一人もいない。石平の『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか』にも張献忠にかなりの紙面が割かれているが、食人についても縷々記述されていて、読めば読みほど背筋が寒くなる。石平のこの本は、隣接する異形の大国、中国とその国民性について考える上で、必読の書と言っていいい。

 しかしまあ、水滸伝も中国民族の国民性の根っ子について考える上では大切なことかもしれない。久しぶりに読んでみたくなった。(学生の頃によんだ記憶はあるが、ほとんど忘れている。)

 本書の中に、「読書メモはとらない」という一節がある。ここでは、読書メモとともに本に線を引くことを愚かな行為として一刀のもとに退けている。
 この点は、私が愛読している、佐藤優『読書の技法』東洋経済)とは全く対蹠的だ。私は、どちらかと言えば、佐藤の読書法に軍配を挙げる。
 ちなみに、私は、本の重要個所にラインを弾いたり囲んだりする、ポストイットも最大限に利用し、必要な書物については読書メモやノートもとる。(レーニンでさえ、読書ノートを作っている。)

 第5章の「私はこんな本を読んで来た!」に羅列されている本の数々は、とりとめのない総花的なものだ。著者の知的レベルを誇るだけの効果しかないだろう。

 佐藤優端倪すべからざる読書法については、前掲著のほか、『獄中記』岩波書店)、功利主義者の読書術』(新潮社)を繰り返し読み、ただただ感嘆するばかりだが、時々は毒消しとしてショーペンハウエル『読書論』岩波文庫)を読んでバランスを取っている。