「笛吹川」深沢七郎著(中央公論社)を抱いて石和温泉へ

9月5日(水)、職場に休暇を貰って、ドイツから帰国中の娘と家内と一緒に山梨へ遊びに行った。まず富士霊園で家内の父親の墓参を済ませた後、甲府盆地方面へ向かい、石和温泉の某旅館へ投宿する。甲府盆地には、この石和温泉のある笛吹市を初め、県庁所在地の甲府市、山梨市、甲州市など、山梨の大きな市域のほとんどが集中している。

 石和の中心部を笛吹川が流れている。今回の旅行には、深沢七郎笛吹川を持参した。昭和33年4月15日中央公論社発行の初版本で、たまたま1ケ月前ほど、web上の古本検索ポータルサイトスーパー源氏」を通じて千円で買い求めたものだ。
(左の写真は、笛吹市役所前で撮影した笛吹川

この小説は次のような一文で始まる。
「笛吹橋の石和側の袂に、ギッチョン籠と呼ばれているのが半蔵の家だった。」

 それにしても、何というそら恐ろしい作品であろう。人が様々な思想や観念にとりこまれて、人間存在の根源の姿から遥かに遠ざかった眼から見ると、いかにも薄気味悪い。何故だろうか。
 深沢七郎『とてもじゃないけど日記』に、著者が辰巳柳太郎「あんたの小説は実存主義だよ」と言われる場面があるが、鋭い指摘だ。ある意味、サルトルの『嘔吐』のように思念に毒されていないだけに、人間の実存の本来の姿を描いた小説として立派だと言える。
 彼の描く人間の実存の意味合いは、”あとがき”にある「『笛吹川』で書きたかったのは生と死の二つの主題だった。」という言葉を読めば明らかだ。この小説に繰り返される生と死の在りようは、人にとってまことに当たり前、特に悲憤慷慨することもなく日常茶飯事的な風景として淡々と扱われている。生と死が、飯を食ったり排泄をするのと同じレベルで無造作にポンと投げ出されている。

 もっとも著者は、このエッセイで実存主義とは何かということを色々な人物に聞き歩いている。著者は「その時、ボクは、その実存主義という言葉の意味を知らなかったのだった。」とトボケている。誰に聞いても、サルトルだ、フジョーリだ、キョムだと言われて、ますます困惑する様子がユーモラスな筆致で描かれていて、抱腹絶倒する。
 深沢七郎は、旧石和町で1914年に生まれ、旧日川中学を卒業し、その後上京してギタリストになる。日劇ミュージックホールに出演し、当時同ホールのプロデューサーだった丸尾長顕に勧められて第1回中央公論新人賞に応募し、見事受賞作になったのが『楢山節考』である。

 宿では、甲州出身の大侠客(というか、尊王攘夷派の志士でもある)黒駒勝蔵の名をそのまま付けた”黒駒勝蔵”という濁り酒を注文した。彼は、現在の笛吹市御坂町で生まれている。彼は浪曲などで清水次郎長の敵役として有名だが、最後は明治政府により甲府の処刑場で斬首されている。
 早速この”黒駒勝蔵”を飲んでみたが、私にはいささか苦手な種類の酒ではあった。
 この旅館では”薬石岩盤浴”というものがあり、夜と朝の二度入浴したが、滝のように汗が吹き出し、浴後はまことに快適であった。

 笛吹橋は笛吹川に面した笛吹市役所から400メートル余り下流にあり、現在は勝沼バイパス(国道20号線)が通っている。
 笛吹川は、富士川水系の急峻な地形を流れる暴れ川で、地図で見ても分かるように、川の流路が幾筋にも細く太く分かれ、複雑で一見つかみがたい不定形をしている。恐らく過去何度も繰り返された洪水で、しばしば流れが変わってきたせいだろう。
 深沢氏のこの作品でも大雨が降って笛吹川が増水し、土手が切れるという間際には、主人公の一族が石和から甲府にある娘の嫁ぎ先へ逃避する場面が何度も出てくる。 

 9月6日に宿を出て、”勝沼ぶどうの丘”へ寄って土産を買ってから甲州市(旧、塩山市)にある”恵林寺”を訪ねる
 この寺は周知のごとく、夢窓疎石が開山した甲斐の名刹で、その後武田信玄が快川紹喜を招く。快川和尚は、織田軍により寺が焼き討ちに遭った時、燃え上がる三門の上で、「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ずと涼し」という有名な偈を発して焼け死んだと伝えられている。(上の写真はこの日撮ったもので、右が再建された三門。)
 週日のためか訪れる人も少なく、ほんの束の間だが塵界を離れて歴史の刻まれた境内や庭園をゆっくり散策しながら、束縛を解かれた心が自在に遊泳するかのような感覚を楽しむことができた。

 作品の詳しい感想についてはあらためて。