「うつ病の脳科学」精神科医療の未来を切り拓く 加藤忠史著(幻冬舎新書、09.9.30)はうつ病の病変解明の科学的アプローチへの模索である

本書は、「はじめに」で著者が述べているように、うつ病を引き起こす脳の病変を明らかにしようとする脳科学の最先端の状況とその成果を綴った刮目すべき著作である。
 著者の加藤忠史氏は、本書のプロフィールによれば、東大医学部付属病院講師などを経て、現在は理化学研究所脳科学総合研究センター精神疾患動態研究チーム・チームリーダーである。
 本書は、通常のうつ病に関する啓蒙書とはやや異なり、脳科学の観点からうつ病を解明しようという先端の科学的アプローチを主なコンセプトとして構成されている。うつ病の神経生物学的解明に賭ける著者の情熱と誠実な人柄がひしひしと感じられる良心的な著作である。

 本書の構成は次のとおりである。下記のレジュメは(言いまわし等)ほとんど著者の文章に則り、一部に文意を損なわない程度のわずかな整理・要約を行った。
第1章 現代の社会問題としてのうつ病
第2章 うつの現在、過去、未来
第3章 脳科学の到達点
第4章 うつ病脳科学(1)―うつ病の危険因子と脳
第5章 うつ病脳科学(2)―抗うつ薬の作用メカニズム
第6章 うつ病脳科学(3)―エピジェネティクス仮説
第7章 うつ病脳科学(4)―臨床研究
第8章 日本のうつ病研究の現状
第9章 日本の脳科学研究の現状
第10章 残された課題―うつ病の死後脳の研究

第1章 現代の社会問題としてのうつ病
 第1章は、著者が<はじめに>で「本書のエッセンスが凝縮された」と言っているように、深刻な現代の社会問題となっているうつ病の診断基準に関する重要な基本情報が多く含まれているので、やや詳しく読んでみる。

 1980年代に世界的にうつ病を含む精神科医療の診断基準が大きく変わったことを機に、以前のうつ病のイメージと全く違う人が、うつ病と診断されることもあり得るようになった。その基準とは、アメリカの精神医学会(APA)が精神疾患の診断基準をまとめた「精神障害の診断と統計の手引き」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)=DSMである。
 うつ病の原因はあらゆる切り口から研究され、ほとんど絞り込まれているが、まだ完全には解明に至っていない。「検査で診断する」ということが出来ない。
 1980年代に導入されたDSMにより、普通の精神疾患脳梗塞甲状腺機能低下などの内科疾患によって起こったものを除く)であるうつ病に対し、”major depressive disorder”<大うつ病性障害>という分類・診断名が定められた。
 これにより、うつ病を「原因」によって分類するのは止め、ある程度重症のうつ状態であれば、みな「大うつ病」と呼んでしまおうという大きな方針転換がなされた。
 そのため、この診断に該当する人は極めて多様で、「抗うつ薬が有効なことが多い」というのが最大公約数的な共通項である。DSMでいう大うつ病とは、実際は一つの病気ではなく「うつ状態を呈する症候群」なのである。

 しかし、どのような基準を導入しようと、現在のように症状や経過を聞いて分類・診断を行っている以上、どうしても限界がある。
 このような状況を解決するには、最新のテクノロジーを使って、症状・経過だけでなく、「大うつ病を引き起こしている脳の『病変』」を見て診断できるようにするしかないのではなかろうか。
 脳の血流変化を引き起こし、セロトニン増加といった神経伝達物質の変化を、2週間以上も続けないと回復しない、脳の中に潜む病変、この「病変」こそ、うつ病を根本から治療するために、つかまえなければならないものなのだ。
 そのあと著者は、日本におけるうつ病の解明・治療法解明に必要な「病変をつかまえるための研究」が全く足踏み状態である現状を紹介し、その理由の一つが、うつ病の原因解明研究が、推進されていないからである、と指摘する。

 厚生労働省精神疾患を担当する部署である精神保健福祉課が、利用者本位の社会福祉制度を目指す部署<社会・援護局>に属していることに注目し、これは日本では「精神疾患を病気と考えてその治療を目指す」という対策よりも、「身体障害、知的障害と並ぶ三障害の一つと位置付け、その福祉を充実させる」ことを重点的に行ってきたことの表れである、と指摘する。これは同じ脳の病気であるアルツハイマー病を担当しているのが疾病の克服と健康の増進を目指す部署<健康局>であるのと対照的である。

 こうした国の施策の構造・事態が気付かれにくい原因は「言葉」にあるという。
 DSMでは精神疾患について”Mental Disorder”という言葉が使われているが、”Disorder”とは病気や疾患ではなく、不調、異常、障害という意味で使われる。DSMが作られた時点では、まだ原因が解明されておらず、病理学的な基盤のある「疾患」(disease)であると言えるだけの根拠が見つかっていなかったので、より広い意味をもつ”Disorder”と言う言葉が用いられた。

 そんなわけで”Mental Disorder”はそのまま「精神障害」と訳され、その「障害」が、ハンディキャップという異なった意味の「障害(Disability)」である知的障害(Intellectual Disability)と身体障害(Physical Disability)と合わせて三障害とされた。
 確かに、精神疾患には二つの側面がある。「障害(Disability)」という側面と、「病気(disease)」と言う側面である。
 しかし、精神疾患全てを一生のDisabilityとして扱うべきだろうか?

 今の日本では、世界有数の自殺率をはじめ、学校現場における教師の精神疾患による高い休職率、うつ病をかたる詐欺、患者さんによる意思への不満、薬害への不安・・・様々な問題がうずまいている。いずれも国民の間の大きな懸案事項であるが、これらの解決には、うつ病の原因解明しかない。
 しかし、原因解明が後手に回りがちになっているというのが、現在の状況である。
日本では、システムの問題によって、うつ病の原因解明研究に対する支援が空白になっている。
 現在うつ病の生物学的研究を行っている機関には(1)国立精神神経研究センターにある2つの精神疾患の研究室(2)理化学研究所脳科学総合研究センター、がある。著者の属する(2)は文部科学省管轄で、臨床研究には必要である病院を持たないため、今のところ基礎研究しかできない。
 様々な切り口からわかってきた研究成果を総合し、つきあわせた結果、うつ病の一部は「神経細胞の突起が委縮する」「神経細胞が減る」といった、脳の「病変」を伴うものかも知れない、というところまでわかってきた。
 あと一歩というところまで研究が進んで来たのが、現在のうつ病研究の最前線の状況だが、しかし、ここには決定的な問題がある。
 それは、研究すべき脳が、どこにも存在しないということである。今までの「基礎研究」を「精神疾患の脳研究」につなげて医療の進歩に貢献するためには、日本にもブレインバンクの設立がどうしても必要であると強調する。
 国のバックアップによる「抗うつ研究開発10ヶ年計画」の推進やブレインバンクのようなシステムがどうしても必要なのだ、というのが著者の結論である。

第2章 うつの現在、過去、未来

 この章は、最もヴォリュームのある章で、DSMの診断基準についての記述が中心となっている。
 前述したDSMが導入される以前、「几帳面で人に気を使う、まじめな性格の人が、生活上の変化をきっかけに発症。そして、身体症状が強く、朝が悪くて夜は少しましになるという日内変動を伴う」といった特徴を持つ典型的な患者さんは「内因性うつ病」と呼ばれていた。こうした特徴を持たない、むしろ心理的葛藤が原因となっていると疑われる患者さんは「抑うつ神経症」とか「パーソナリティ障害」として治療されたりしていた。
 実際これらのそれぞれの鑑別は容易ではなく、同じ内因性といっても「引っ越しうつ病」「荷下しうつ病」など誘因〇〇を病名に含めることもあった。
 そうした診断を行う上の混乱を克服するために、一人の人を、どの医師が診断しても、同じように診断がなされることを目的として作られたのが、うつ病を含む、あらゆる精神疾患の診断基準を定めた「DSM」であった。
 本格的な導入は、1980年の「DSM−3」に始まった。(−3、は本来はローマ数字だが、変換ができず、アラビア数字を用いた。後記の−4、も同じ。ただし、−5、からはアラビア数字表記になる模様。)
 現在日本をはじめアジア諸国、欧米諸国が、みなこのDSM診断基準、およびこれを参考にしてWHOが作ったICD−10を用いてうつ病などの診断を行っている。
 DSMは随時改訂され、現在は2000年発表の「DSM−4−TR」が使われている。
 DSMの特徴は先ず、きっかけや心理的背景でなく、病状で判断することである。もう一つの特徴は病名を併記することである。
 この辺の詳細や、DSM導入で進んだ研究例は、本文で確認していただきたい。
 往々にして不満の声の上がるDSMは止めた方がよいかについて、著者は、その功罪を考量した上で、そんなことはない、と言い切る。
 なぜなら、導入以前の精神科医療は、もっと混乱していたから、と言い、臨床上の利点について詳述する。

 ここで、著者が整理したDSM−4によるうつ病に関連する診断分類を挙げてみる。
 大うつ病
 双極性障害
 気分変調性
 気分循環性
 失調感情障害
 一般身体疾患による気分障害
 物質誘発性気分障害

 現在、通常「うつ病」と言えば、「大うつ病」を示すと言ってよいだろう。
 大うつ病エピソードは、さらに特定用語で、その特徴を記述することになっているが、最も代表的なもの(亜型)は次の二つである。
メランコリー型うつ病
非定型うつ病
 本書ではこれらの特徴が詳しく述べられている。しかし、DSMによる分類は、大うつ病の分類まではよく一致するすのだが、さらにこうした亜型分類しようとすると、とたんに医師の間で、診断が一致しにくくなってしまうとして、その理由と具体的な症例を詳しく紹介している。
 そして、精神科の診療の困難さについて、現在のところでは、仮説に基づく治療を行い、その効果を見ながら仮説を再検討し治療を修正するという試行錯誤を繰り返さなければならない実情を述べている。

 本書には、現在のDSM−4−TRの改訂版、DSM−5が2012年に発売の予定と記されているが、その後のスケジュールの変更で、2013年に延期されることになった。そして、2010年2月にDSM−5のドラフト(草案)が米国精神医学会(APA)から発表されている。これについて詳述する余裕も能力もないが、最も信頼できる資料として「精神科治療学」2010年8月号(Vol.25)に今回取り入れられる精神疾患の”次元的評価”(Dimensional assessments)という新しい診断アプローチを始め、各疾患の診断基準等について詳しい解説が掲載されているので、参照のほどを。

 第3章〜第7章は、脳科学の成果と現状及び最新の脳科学研究の成について記述されており、分子生物学の知識が必要とされ、評者には歯ごたえがあり過ぎる。ここはスルーするので直接本書に当たっていただきたい。
 キーワードだけ挙げれば、「モノアミン仮説」「セロトニン仮説」「BDNF(脳由来神経栄養因子)」「コルチゾールの過剰分泌」「エピジェネティクス仮説」「DNAメチル化」など。

 第8章 日本のうつ病研究の現状
 筆者は、日本における気分障害研究は、個々の研究の水準は高く、各研究者は十分に健闘しているにもかかわらず、とにかく研究者数が不足しているために、他のどの疾患と比べても論文数が著しく少ない、と嘆く。
 その遠因として筆者は、1968年に始った東大闘争を挙げている。インターン制度撤廃、医局講座制解体を挙げて東大に立てこもった勢力が、東大精神科の病棟を自主管理(占拠)し始め、これが30年の長きにわたって続いたことを挙げる。この勢力が、その後外来で通常診療を再開した勢力と、延々と対立を繰り返し続けた。様々な紆余曲折を経て、完全に紛争の後遺症が払拭されたのは、2008年のことであった。
 こうして東大もようやく通常の病院業務をこなせるようになり、本格的に精神疾患研究が行える環境が整った。
 ところが、最近また、「精神科医は患者を食い物にしている」などの過激なスローガンで、精神医療を批判する宗教団体が現れている、とのことである。(サイエントロジー教会のことだろうか?)
 東大闘争から反精神医療宗教団体まで、この辺は何とも判断が難しい。人間の信条や世界観にかかわるものなので、評価も分かれるところであろう。評者としては、実態の検証も行っていない立場から、結果の善し悪しだけで軽々にものを言うことは出来ない。
 ただ、研究者不足と研究予算の乏しさを訴える筆者の主張は至極もっともであり、結果として大学紛争が研究者不足を招き、うつ病研究の遅れが生じたという見解は事実として理解できる。

 紙数も尽きたので、第9章、第10章を簡単にまとめてみよう。
 第9章では、日本の脳科学全体の状況について述べる。特に著者の勤務する理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI)の活発な活動の歴史が述べられる。筆者の主張は「脳科学は最先端の人間科学であり、技術開発が重要である」という言葉に尽きている。
 第10章では、今こそ精神医学は、病理学に基づいた医学を目指す時が来ているとして、ブレインバンクの整備を主張する。日本では現在、福島県立医科大学の「精神疾患死後脳バンク」が唯一精神疾患に特化したブレインバンクである。しかし、登録者、および集められた脳は、ほとんど統合失調症であり、献脳できるのは福島県内の方に限られている。
 もう一つ、東京都健康長寿医療センターの「高齢者ブレインバンク」もあるが、精神疾患は対象ではない。
 現在、世界的には、多くの精神疾患のブレインバンクが活動している。スタンレー医学研究所の、スタンレーブレインバンクが統合失調症双極性障害の死後脳研究進展の大きな原動力となっていて、著者によれば625人分の脳を集め、240人を超える研究者に脳サンプルを配布した結果、すでに183本以上の論文が発表されているそうである。

 本書の結論として著者は以下のように結んでいる。
 不確実で、医師によって異なる判断。抗うつ薬のみの画一的な治療。副作用への不安。専門家が関与しても完全には予防できていない自殺・・・
 こうした現状の精神医療の問題点を克服するには、病理学に基づいて精神疾患の疾病概念を再構築し、科学技術に基づく新時代の精神科診療を実現しなければならない。
 そのためには、死後脳研究が不可欠である。