「皇帝のかぎ煙草入れ」ジョン・ディクスン・カー、駒井雅子訳(創元推理文庫、’12.5.20)

前回偉そうなことを述べたにもかかわらず、またカーの作品を取り上げることになってしまった。
 というより、何気なく買い置きしておいたこの作品の新訳を手に取ったのが、つい面白さのあまり、一挙に読み終えてしまったというのが事実だ。前回読んだ「曲がった蝶番」に比べて作品としてのまとまりは良いし、おどろおどろしい怪奇趣味や無理にこじつけたようなトリックもない。ほとんどが人間心理の盲点あるいは脆弱性を衝いた心理的トリックでだ。登場人物の性格もよく書き分けられている。もっとも、主要人物の性格の解析がこのミステリーの生命線でもあるのだ。

 それにしても、カーはタイトルの付け方がいつもながら”うまい”。「皇帝のかぎ煙草入れ」は、原題は文字通り"Emperor's Snuff-Box"なのだが、日本語の方が雰囲気に富んでいる。
 他にも「火刑法廷」"The Burning Court"、「ユダの窓」"The Judas Window"、「夜歩く」"It Walks by Night"などで、邦訳に特に工夫がある訳でなく、見て分るようにすべて直訳である。しかし、どれもカー独特の陰影に富んでいて、いかにも読者の食指が動きそうなカリスマティックな題名だ。

 本編は、驚くべきトリックについては、解説の戸川安宣が実に手取り足取り論じていて、誰もこれ以上旨く分析はできないと思うので、詳細は是非そちらを参照して欲しい。ただ一言だけ言えば、犯人の仕掛けたトリックの心理的伏線の張り方が実に巧妙であることだ。本書のタイトル「皇帝のかぎ煙草入れ」からすでに伏線がスタートしている。

 特筆すべきは、カーのストーリー・テラーとしての力量である。読み始めると後はノンストップで読み進むことになる。これは、前回の「曲がった蝶番」でも述べたことだ。
 次に、主人公のイヴ・ニールの女性としての(魔力にも近い)魅力が生き生きとした筆致で描かれていることだ。ある意味、この魔力がこの犯罪の根源にあるのかもしれない。作品のエンディング近くで、探偵役のダーモット・キンロス博士との間に次のようなやり取りがある。しばらくニースかカンヌにでも行こうと言うイヴに対して、

「だめなものはだめです。あなたはゴロン署長の言ったとおりだ。」
「あら、わたしのことをなんて?」
「騒動の火種だと言っていましたよ。また次にどんな厄介事に巻きこまれるかわからないとね。もしリヴィエラに行けば、そこで獲物を待っているごろつきに引っかかって、その男を愛していると思いこまされ・・・・今回のようなことを繰り返すのがおちです。」

 このように、男を狂わせる女性というものはいつの世にも、どこにでも常に存在する。こうした女性は、男が放っておかないため、いつもちやほやされるが、最後には男が狂わされ、精神的に破綻するケースが多い。所詮男は女にかなわない。

 本書の翻訳者の駒月雅子の文章は初めて読んだが、作品の雰囲気をよく掴んだ優れた訳だと思う。日本語としても不自然なところはない。本書を一気に読み切ることができたのは、この訳に負うところが多いのかもしれない。