「ホフマンスタールとその時代」ヘルマン・ブロッホ著(菊盛英夫訳:筑摩叢書、'71.5.25)−世紀末ウィーンへの憧れ(1)

 世紀末ウィーンとは何と甘美な響きであろう。ウィーンで生まれたこの時代に開花した豊穣で爛熟した文化のアウトプット(知的生産物)の数々は、人類に計り知れない貢献をしている。いったいどんな時代であったのだろう。
 そもそも、世紀末とはいつからいつまでの時期を指すのか。それはおおよそ、オーストリアハンガリー二重帝国が成立した1867年から、1938年のいわゆるアンシュルス(Anschluß)、即ちナチス・ドイツによるオーストリア併合までの間と考えていい。
 その間、1916年にフランツ・ヨーゼフ一世が没し、カール一世が即するも2年後には国外退去、1919年にはオーストリア共和国が成立し、一時シュンペーターが蔵相を務めたりしていた。しかしそれもつかの間、1938年のアンシュルスによりオーストリア国家は消滅するのである。
 別のブログで、世紀末ウィーンに関して書いた文章があり、今読むと汗顔ものだが下記に再録するのでご参照を。
オーストリア=ハンガリー帝国1905年、メリー・ウィドウよりヴィリヤの歌

 この都でこの時代を生きた作家シュテファン・ツヴァイクは、自伝『昨日の世界』(原田義人訳:みすず書房、'99.3.10)の中で、いわゆる世紀末帝政下のオーストリア&ウィーンの世界史的立場を次のように述べている。

「ところでヨーロッパの都市でウィーンほど、文化的なものへの欲求を情熱的に持っているところはなかった。その君主国が、オーストリアが、何世紀このかた政治的に野心を抱きもしなかったし、その軍事的活動で特に成果を収めもしなかったゆえにこそ、郷土の誇りは芸術的な優越を得ようとする願望に最もい強く向けられた。かつてヨーロッパを支配した古いハプスブルク帝国からは、すでに以前から、もっとも重要で最も価値のある諸州が、すなわちドイツ、イタリー、フランドル、ベルギーのヴァローネが、失われていた。しかし、宮廷の守り、二千年の伝統の維持者である首都は、その昔の輝きを傷つけられないで残っていた。」
 ツヴァイクは、自身のこの時代に翻弄された数奇な運命にも関わらず、世紀末ウィーン文化について比較的好意的な見方をしているのは、彼の人柄の良さの反映だろうか。

 ツヴァイクはこの書で、若きホーフマンスタールの出現を、「早熟な完成の偉大な奇跡のひとつ」として讃嘆と驚愕をもって情熱的に記している。フーゴー・フォン・ホーフマンスタールは、文学者としてはローベルト・ムージルヘルマン・ブロッホ、あるいはシュテファン・ツヴァイク、ゲオルグ・トラークルなどに先駆けて、この時代を象徴する巨星として燦然と輝いている。
 ついでながら、この時代に活躍した人々を挙げると、音楽家では、アントン・ブルックナーリヒャルト・シュトラウスグスタフ・マーラー、アーノルド・シェーンベルクアルバン・ベルク、アントン・ウェーベルン、フランツ・レハール、音楽家以外では、ジグムント・フロイト、クルト・ゲーデルジョン・フォン・ノイマン、ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタインヨーゼフ・シュンペーターなど枚挙にいとまがない。画家ではグスタフ・クリムトエゴン・シーレ。また、ツヴァイクの前掲書にも登場するが、シオニズム運動の元祖、テオドール・ヘルツルも忘れてはならない存在である。
 なお、ウェーベルンについては、やはり別のブログで、バッハの「6声のリチェルカーレ」を編曲したものを紹介した。
妙なる静謐:バッハの「音楽の捧げもの」より”6声のリチェルカーレ” 
 またアルバン・ベルクについては「ヴォツェック」に言及した際に若干述べた。
人間は深い淵だ−アルバン・ベルク<ヴォツェック>より

 この時代を生きた(ツヴァイク以外の)最高の知性たちは、世紀末ウィーンをどのように見ていたのだろう。それには、前記のツヴァイクのとは別の意味で格好の本がある。古井由吉は、二次大戦中およびその直後のドイツ・オーストリア人作家の手になる大作として、ムージルの『特性のない男』やトーマス・マンの『ファウスト博士』と並んでヘルマン・ブロッホの『ヴェルギリウスの死』を挙げているが、そのブロッホの文学論である『ホフマンスタールとその時代』(菊盛英夫訳:筑摩叢書、'71.5.25)がそれである。(左の写真は、ヘルマン・ブロッホ

 この晦渋な本の解説で訳者(菊盛英夫)は、「同国人の天才的作家ホフマンスタールの仮面を借りて、実はブロッホ自身の作家的課題に対する総決算的解答を与えようとしたものであることに、まずわれわれは留意しなければならない。」と述べているが、そもそも浅学の身ではその言葉の当否は判断できないので、ここは碩学の士である菊盛の見立てを信じて読むのが妥当であろう。

 ブロッホはこの本の第1章<十九世紀末における芸術とその非様式>で、政治的には凋落に陥り、”実質の貧しさ”を糊塗するために帝国における人々の関心が向かったのは、装飾主義的で折衷主義的な文化の諸相であったとし、それを理解するキーワードとして、芸術における”非様式”やハプスブルク帝国が陥った”政治的真空”を措定する。
 この章は次のような文章で始まる。 

「ある時代の本質的特徴は一般的にその建築術上の正面(ファサード)によって読み取られるものだが、十九世紀の後半、つまりホフマンスタールが生まれた時代こそは、たぶん世界史上もっとも見すぼらしい時期の一つだと云えよう。それは折衷主義の時代であり、疑似バロック、疑似ルネッサンス、疑似ゴシックの時代であった。その当時西欧の人間が生の様式の規定点をどこにおいたにしろ、彼らの生の様式は市民的狭隘さと同時に市民的虚飾と化し、安全であるだけにまた息苦しいものであった社会的連帯形式と化したのである。まさにこの時代は、実質の貧しさが外面の豊かさによって隠蔽された、歴史上稀有の時代であった。」

 ブロッホは、十九世紀の市民が合理主義者であったとし、この合理主義者の眼差しがほとんど後方を向き、往時の現世的現実の中に、現在を判断する上に必要な法則を発見しようとする結果、彼らの眼差は折衷的にならざるをえなかったと言う。価値崩壊の極端な進行の中では芸術の諸相は”非様式”となり、それを形成しているのが折衷主義的様式群であるとする。

 ブロッホは文学者らしく、直感に基づき手づかみで様々な独自の見方を取りだし、難解な論理を組み立てる。この辺は私の読解力では追い付かない部分も多々ある。
 例えば、十九世紀の市民を”合理主義者”だったと決めた上で、合理主義がしばしば”享楽主義”と、多面冷静・明晰でリアリスティックな世界考察を求める結果、その世界を享受できるものに粉飾し直し、あらゆる貧しさを糊塗し、その装飾欲は極めて偽善的であったとするが、飛躍的で何とも天才的閃きに満ちた見立てである。
 それにしても合理主義者の眼差しが後方を向くというアニメチックな構図や、合理主義から前述の”享楽主義”云々を導き出す手際は私のような凡人にとってはただ唸るしかない。

 ブロッホは社会的全体性を捉えるものとして長編小説(ロマーン)を挙げ、「長編小説形式はいってみれば十九世紀に適合した芸術となった」とする。彼によればその濫觴となった作家はセルヴァンテスである。(もっとも、セルヴァンテスは16〜17世紀に活躍した作家ではあるが。)
 長編小説形式には、この時代に勃興した大都市(ロンドン、パリ、ニューヨーク、ベルリン)に形成された時代の表現、すなわち、多様性、分裂状態、貪欲、陰惨が属性として付着していたと言う。
 しかし、外から見た限りとしながらも、この時代の代表的芸術ジャンルとなったのは、小説ではなく演劇であり、演劇にはバロック演劇構成の原理が模範とされていて、演劇でもって十八世紀は十九世紀に持ちこされたとする。(言うまでもなく、バロックとは17〜18世紀にかけて、ルネッサンス後のヨーロッパで流行した様式で、過剰な装飾技巧を特徴とし、建築や建築装飾、絵画、彫刻、音楽、文化などの芸術様式一般に及ぶ様式である。)
 その上で、十九世紀の非様式を形成していた折衷主義的な様式群の真っただ中にあって、演劇術こそがたったひとつ、なお純粋な様式伝統がはたらきつづけていた領域である、と結論付ける。
 その結果、舞台では時代の非様式が再び様式となっていたとし、「語のもっとも真実な意味ないしは二重の意味において、演劇は豊かさによって隠蔽された時代の貧困をあらわしていた」のであると言う。

 ところが、そう言いつつも、舌の乾かぬうちに、「豊かさによって隠蔽された貧困という公式でもいって、十九世紀後半の文化や文明の広がり、その一部をなす芸術表現の多様さや実質は決して云いつくされてはいない。」と自説に注文をつける。やれやれ。
 その証左として持ちだされるのが、一つはボードレールによって始まった新しいフランス文学であり、いま一つは印象派絵画である。
 そこから芸術至上主義について筆が及ぶが、そこには「社会的無関心」という完全に典型的な特質が刻印されていると言う。そして、ボードレールセザンヌ、ファン・ゴッホを引き合いに出し、芸術至上主義において発現した非合理的なものが、芸術家自身は自制心に充ちていながら、アナーキーな放恣の前触れだったとし、それはやがて二十世紀という”最も暗欝なアナーキー、最も暗い隔世遺伝、最も暗い非情の世紀”へと導く新しい人間タイプの先駆けであった、とこの時代の生き証人であるブロッホは洞察するにいたる。ただ、洞察と独断は紙一重であるとも言える。

 世紀末ウィーン文化を”政治的真空”との関連において、菊盛英夫が解説の中で「断末魔に陥ったオーストリア千年帝国の”政治的真空”状態中に最後の花をひらいたウィーン文化の特殊な性格」と位置付けている。
 ブロッホは ”政治的真空”という帝政末期における特異な現象を、一節を割いて詳細に述べている。そこでは、オーストリアとイギリスにとって王冠=帝政への政治的必要性が(国が興隆期にあるか衰微に向かいつつあるかは別にして)類似的に語られる。
 両国にとって、王冠は、象徴的に、またあくまで合理的な、国家技術の点で実際的で不可欠な道具を成していると述べ、特にオーストリアの場合はハプスブルク帝国を構成していた、複雑で、おまけにばらばらな意向をもつ自治国や半自治国の集まりに、可視的な、法的根拠のある統一を付与するための道具」であったと分析する。

 こうやって考えを巡らせながら丹念に読んでいると日が暮れて道遠しの感が深い。ここまでにしてからが本書のほんの始まりに過ぎない。それでもこの時代の姿はぼんやりと見えてきた。しかし、何という重量級の書物であろう。わが貧しい頭脳をフル回転して論旨を舐めるように追って行くと、遅々とした歩みではあるが、著者の歴史の最深部に食い込み且つ噛み砕く力技に、何とも言えない興趣が腹の底から湧いてくるのだ。このような評論はほとんどお目にかかったことがない。

 第1章ではこれ以降はウィーンを超えてヨーロッパ全体の芸術の運命と歴史認識に筆が及んで行くので、それらについて考えるのは次の機会としたい。

 シュテファン・ツヴァイクヘルマン・ブロッホという二人の知的巨人の見立てを瞥見することで、ウィーン世紀末の二重構造的な輪郭がおぼろに見えてきたのではないか。