「知性の限界」高橋昌一郎著(講談社現代新書、'10.4.20)その(1)ーそうか、ポストモダニズム系学者の知的詐欺が分かった!

実に楽しい読み物だ。
 同じ著者の『理性の限界』(講談社現代新書)は以前買い求めて持っていたが、昨年の引っ越しの際に行方が分からなくなり、いずれどこからか出てくるだろうからと、先ず図書館でこの本を借りて読み始めたが、あまりの面白さに一気に読了した。そこであらためて本書を買い求めて読み返してみた。
 私が今一番関心を抱いている言語と論理の問題を中心として様々な立場を代表する人たちが登場して賑やかにディベートが繰り広げられ、一種の知的漫談の趣を感じる。

 このコンパクトな本の中身は実に盛り沢山である。第一章「言語の限界」、第二章「予測の限界」、第三章「思考の限界」と分けて論じているが、登場する最高の頭脳たち(哲学者、科学者など)は、第一章はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、第二章はカール・ポパー、第三章はポール・ファイヤアーベントが中心で、その周りをエマヌエル・カント、そしてモーリッツ・シュリックなどのウィーン学団、ヨハン・ヘルダー、マイケル・ダメット、フランク・ナイト、フレッド・ホイル、クルト・ゲーデルエドゥアルト・フォン・ハルトマンなどが綺羅星のごとく暦回(へめぐ)っていて、その華々しさに目が眩むようである。

 先ず第1章「言語の限界」だが、無論ここは、「かくして本書(*)は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。・・・したがって限界は言語においてのみ引かれうる。」と(*)『論理哲学論考』序で宣べたウィトゲンシュタインを中心とした論考になる。
 この章では、ウィトゲンシュタイン(の『論理学論考』)に強い共感を抱くウィーン大学に集う研究者の集団(『ウィーン学団』と呼ばれる)のリーダー格だったモーリッツ・シュリックウィーン大学構内で射殺された事情が詳しく書かれてい興味深い。

 シュリックの死で崩壊したウィーン学団のメンバーたちは、主としてアメリカの大学へと移籍し、それに伴い彼らが提唱していた論理実証主義も下火になっていく。哲学史上ではウィーン学団論理実証主義運動も二十世紀に破綻したとされるが、著者はその大きな原因の一つがクルト・ゲーデル不完全性定理であると指摘している。
 著者はその理由として、ゲーデル不完全性定理によって、論理学から全数学を導出することができないことを明らかにした」とした上で、さらにタルスキーの証明もからめて、ウィーン学団が理想とする普遍的言語やそれに基づく統一科学も、厳密には実現不可能であることが立証され・・・皮肉なことに、ウィーン学団の『論理学という武器』によって、論理実証主義の理想が破壊された・・」と述べている。
(アルフレト・タルスキ−の名前が何気なく出てきたが、彼は、”バナッハ=タルスキのパラドックス”で有名な、人類史上の4人の偉大な論理学者の一人に数えられる大人物で、ないものねだりかも知れないが、ゲーデル不完全性定理との関連では極めて重要な「真理概念」について、もっと論述して欲しかった。なお4人の偉大な論理学者とは、アリストテレスゲーデル、タルスキ、フレーゲだと言われている。)

 岩波文庫版の『不完全性定理』の訳者の林晋/八杉満利子の解説で、ゲーデルのこの書で述べられている二つの主定理を以下のように「厳密さを損なわずにしかし平易に」述べているので、参考までに引用しておく。(ただ「不完全性定理」についての本当のところは私にはよく分からない。岩波文庫でわずか48ページの『プリンピキア・マテマティカおよび関連した体系の形式的に決定不能な命題について1』と名付けられた論文を全くと言っていいほど理解はおろか読むことすらおぼつかないのである。辛うじてさまざまな解説書を読んで、さしずめ”群盲象を評す”といったレベルを超えられない程度の理解力しか持たない。)

 1、数学の形式系、つまり、形式系と呼ばれる論理学の人工言語で記述された「数学」はその表現力が十分豊かならば、完全かつ無矛盾であることはない。(第1不完全性定理
 2、数学の形式系の表現力が十分に豊かならば、その形式系が無矛盾であるという事実は、(その事実が本当である限り)その形式系自身の中では証明できない。(第2不完全性定理

 ちなみに、第2不完全性定理と呼ばれるものは、ゲーデルの論文では定理Ⅺだが、それはこのように書かれている。(岩波文庫、前掲書 59頁)

”kを任意の再帰的で無矛盾な【論理式】の類とせよ。そのときkが無矛盾であることを意味する【文論理式】はk‐【証明可能】でない。特にPが無矛盾であるならば、Pの無矛盾性は、Pにおいては証明不能である。”
(体系Pは、これより前の記述で、形式系として詳しく説明されているが、私には全く歯が立たない。ことほどさように、不完全性定理についてはほとんどお手上げ状態で、自分自身の知性の限界を認識させられるばかりである。)

 この章で痛快なだったのは、ソーカル事件(「サイエンス・ウォーズ」)についてである。事件は、ニューヨーク大学の物理学者のアラン・ソーカルが『ソーシャル・テクスト』誌に発表した論文が、実は完全な「パロディ」で、ポストモダニズム系学者の無数の「意味をなさない表現」を引用して組み合わせた「でっちあげ」論文だったという事件である。著者によれば、その翌年と翌々年にソーカルは物理学者のブリクモンとともに、とくに数学・科学用語の濫用が甚だしい学者たち、ラカンクリステヴァガタリボードリヤールドゥルーズなどポストモダニズム錚々たるビッグネームたちのテクストを具体的にやり玉に挙げた『知的詐欺』『「知」の欺瞞』という書を発表している。
 この本にはその一部が、テクストとそれを徹底的にこき下ろしたコメントという形で紹介されていて、実に痛快で溜飲が下がる思いである。今までまばゆいばかりの思いで仰ぎ見ていた知の巨人たちが、実は何とも姑息な知的詐欺師でしかなかったのか!

 ひとつ本書から引用してみよう。ポストモダンの代表的思想家であるジャン・ボードリヤールのテクストについてのコメントである。(テクスト本体は省略し、コメントのみを引用する。)
・・・ボードリヤールの作品は大量の科学用語に満ちているが、それらの意味は全く無視されているし、それ以上に、明らかに何の関係もない状況で使われている。これをメタファーと解釈するにせよしないにせよ、このようなことを書いて、社会学や歴史についての凡庸な見解を深遠に見せかける以外いったい何の役に立つのかは理解できない。」

 ソーカル事件については、CiNii(国立情報科学研究所)のウェブサイトで、東北大学大学院の黒木玄氏が”大学の物理教育”に発表した「ソーカル事件」という論文を読むと更に詳しい事情が分かる。


(以下次回へ)