「グローバル恐慌」浜矩子著(岩波新書、09.1.20)― 読むのが遅きに失したか?

この本は刊行が09年1月、本書の「おわりに」の日付は08年12月で、まさにリーマン・ショックが起きた08年9月15日からまだ間もない時期に書かれている。強靭な思索力に加えて快刀乱麻を断つごとく難題を次々と裁く手綱も鮮やかな、読んでいてまことに痛快な本である。ただ、鮮やか過ぎて、ここまで切るかというところまで切り込んでしまっている趣はあるが。ずっと以前に買い求めてあったのだが読みそびれ、今度やっとひも解くことができた。

 出版後3年9ケ月も経っていて、すでにweb上には多くの書評が出ているので、屋上屋を重ねることになるが、ここでは読んでみて強く感じたポイントだけを記す。この本はグローバル経済というものを考える上で未だに極めて強いアクチュアリティを持っていると思うからだ。ただ奈何(いかん)せん経済については全くの素人、見当違いの見方もあると思うので、その場合はどうかお笑い下さるように。

 この本の一番のキモは、第1章にある<円キャリートレードに乗ったジャパンマネーが地球経済を回して>いて、<従来型の基軸通貨不在の中で円は隠れ基軸通貨となっている>という想像力豊かな分析である。愚見ながら、経済学の記述には幻視力、フィクションを組み立てる想像力が必要と思っており、その点で著者は、ここで想像力のボルテージを頂点近くまで上げている。
 確かに物語としては大変面白いが、立証するのは極めて難しく、他方、いささか日本の役割を過大視し過ぎているきらいがある。

 そして、著者の言う<今日の円が隠れ基軸通貨>という説は、(私には)自家撞着に陥っているように思え、通貨についての考え方としては、むしろ「世界恐慌の足音が聞こえる」(中央公論新社)で榊原英輔が紹介している水野和夫の分析の方がより説得力を持っていると思われる。すなわち、米ドルの弱体化していく状況ではユーロにしても円や人民元にしても、しばらく米ドルに代わる事が出来ない「無極化」の状況にある、という見方だ。

 もっとも著者も自説の前提として、<従来型の基軸通貨不在>と言っているのだから、現状分析においてはそれほど考え方の相違がある訳ではない。
 著者は、3.11震災直後に出版した「『通貨』を知れば世界が読める」(PHPビジネス新書、11.6.8)においても、やはり<円キャリートレード>→<隠れ基軸通貨>という考え方を披歴しているので、この見方に相当こだわっていることが分かる。

 第3章「地球大の集中治療室」は、まるでバーバラ・タックマン女史の「愚行の世界史」の続編のようだ。女史は1989年に亡くなっているが、今生きていれば、ベトナム戦争の章の後に、グローバル金融危機の章を置いたかもしれない。なぜなら、タックマン女史が愚行と呼んだのは<施政者>即ち<政治指導者>の振舞いについてであり、今般の金融危機と奇しくも軌を一にしているからである。また、この本が書かれた以後のEUの危機(ギリシャ危機など)における各国の政治指導者の見通しの悪さ、優柔不断さ、無責任さは、すべて愚行に至る病(やまい)である。
 著者が鮮やかに切り割いて見せてくれる出し物は、まさに欧米の政治指導者の無能ぶりのオンパレードである。

 第4章「恐慌を考える」では過去の恐慌の歴史及び21世紀型<グローバル恐慌>について説明されていて分かりやすい。web上のとある書評で、マルクス経済学の恐慌論、恐慌史などの過去の膨大な研究の蓄積に対する理解が浅いと批判しているが、この批判は当たらない。
 この本で言う恐慌という言葉は、学問的正確さを求めるよりは、以前にも述べたように、”イメージ”として広く捉えた方が今起きている経済事象に対する理解が得やすいと思う。グローバル恐慌という21世紀に登場した新しい概念に対しては、象牙の塔で埃をかぶっている経済学理論に引きずられていては視野狭窄に陥り、肝心なものが見えなくなる。

 なお、ミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツは、共著「米国金融史」の中で1929年の株価の暴落に続く大恐慌の原因として、貨幣供給が過少になって物価の下落と生産水準の低下を招いたとして、FRBの金融政策の誤りを指摘していて、これが現在の定説のようだ。ただし、これは20世紀型の大恐慌であり、21世紀型グローバル恐慌と呼ばれるものに必ずしもそのまま当てはまる訳ではないだろう。
 このフリードマンらの本の第7章が「大収縮1929-1933」というタイトルで日経BP社から刊行されており、巻頭の「新たな緒言」でシュウォーツは以下のように述べている。
―「(「米国金融史」の第7章における、1929〜1933年の大収縮の再解釈で)著者らが示した事実とは、一連の銀行恐慌の時期に、連邦準備制度が最後の貸し手としての役割を果たせなかったことで、通貨供給量が大幅に収縮し、これが総需要、国民所得、雇用を減少させる原因になったことである。市場が経済を不安定化させたのではなく、金融政策は無力どころか、正しく実施すれば健全な経済を維持できるが、使い方を誤れば経済を弱体化させてしまう、強力な手段だった。」

 第5章の「そして、今を考える」の中の<中国経済までもが・・・>というところで、筆者は中国経済タイタニックに例えて、悲劇的な見通しを述べているが、現実は必ずしもそのとおりの展開にはなっていないようだ。この点は、前に榊原英輔氏の著書で紹介されている、アンドレ・グンダー・フランクの「リオリエント」(藤原書店)の歴史観の方により説得力を感じる。フランクは、ウォーラーステインブローデルに代表されるヨーロッパ中心主義の世界システムという歴史観を終始徹底して批判している。

 フランクは「ブローデルおよびウォーラーステイン、その他実に多くの論者が誤って主張していることとは反対に、・・・近世の歴史が、ヨーロッパ世界システムの拡大によってではなく、ずっと作用してきていた{グローバルな}世界経済によって形成されてきたという結論に、不可避的に到達する」と指摘する。
 そして、世界の他の地域に対する、ヨーロッパの、大半の歴史的、社会「科学」的、および一般的な著作や認識に、暗黙に含まれている「ヘゲモニー」という考え方を批判して、「どこにせよ、ヨーロッパの地域が、世界において、ないしは世界に対して、ヘゲモニー的権力を振るうことや、ないしは経済的指導力を発揮することも、あり得なかった」と断定、さらに「ヨーロッパの諸国家は、明・清朝ムガール帝国オスマン帝国や、サファヴィー朝といった諸帝国の織りなすチェス盤の上では、全くの小駒でしかなかった」と見る。

 また、19世紀に至って西洋は一時的に勃興したが、「西洋と東洋とが、そう遠くはなく、すでにぼんやり予見できる未来に、再びそのグローバル経済および世界社会における地位を交換することが見て取れる」と大胆な予見を示す。
 そもそも中国の経済は資本主義といっても、良くも悪くも米欧のような議会制民主主義国家が経営する自由主義イデオロギーの下での野放図な資本主義とは別種の統治原理で動いているし、政治指導者の力量も米欧の指導者より練達度では一日の長が感じられ、流石に「孫子」の末裔と思わせるところがある。

 なお私自身、現在の中国の国家体制と政治のヘゲモニーの在り方にあまり共感を持たない人間であることを断わっておく。