「このムダな努力をやめなさい」成毛 眞著(三笠書房、'12.10.)−論理破綻した無思慮な本、並み居るお気軽本のひとつ!

著者紹介欄で、86年から2000年まで14年間「マイクロソフト社」に勤務をし、そのうち91年からは社長を勤めたとある。
 良くも悪くもこの勤務経験が、著者の物の考え方を陰に陽に支配しているに違いないと想像できる。
 同じ著者紹介欄には、ビジネス界きっての読書家とも紹介されている。
 本書はこの出版社(三笠書房)が得意とする<分かりやすい人生論>という無思慮なコンセプトで書かれている。

 もっとも、三笠書房の名誉のために言えば、私の愛読書に、同社刊の「バルタザールの悪の自分学」(佐藤喬訳)がある。17世紀のスペインの高僧グラシアン・バルタザールの、いわゆる”A POCKET ORACLE"の翻訳で、最近他の訳書もみられるが、この佐藤氏の訳を凌ぐものはない。今は絶版だが、是非再刊を望みたい。マキャベリを凌ぐ生きる知恵に満ちたすばらしい本である。

 著者が主な職業経歴として誇る日本マイクロソフト株式会社がどんな会社か分からないが、かつてこの会社にCGデザイナーとして勤務していたある人の話では、ここの社員は、一言で言えば”のん気”であり、強烈な勤労意欲をあまり感じなかったという。これは一種の与太話のたぐいで半分も信じてはいないが、しかしこうした話からも一掬の真実は垣間見られる。それは、ライセンスで食べている会社はうらやましい、ということだ。

 このやや斜に構えた本には、著者の経歴からくる無国籍的な処世観、一言でいえば無為徒食の薦め、限りなく退嬰的たるべしということがが語られている。世の常識を逆さにするという手法を用いれば、やすやすと、自動的にこの手の本ができ上がる。

 世の常識を見下した言説の合間に、まことにきれいごとの道徳観がちょこちょこ顔を覗かせるのが本書の価値をさらに下げている。覚悟に乏しい人間は、物事に徹底し切れず、心の平衡を保つために往々にしてこうした中途半端なことをしてしまう。この本の随所に見られる論理破綻の一例だ。
 例えば、
「一%の人しか儲からない世の中の仕組みを知ってしまったら、真面目に働くのがばかばかしくなる。カネがなければ結婚もできず子供もつくれないので、少子化が進む。国は崩壊に向かっていく。現に日本はそうなりつつある。
 このような世の中では、せめて「良心」がないとやっていけないだろう。
 正直者がばかを見る世の中とはいえ、最後に人がよりどころとするのは「良心」ではないだろうか。」

 何という自家撞着!口を極めて、良心にとらわれるなということを述べてきた著者の言とも思えない。そもそも良心を枉(ま)げてでも上手く立ち回り、要領よく世を生きる知恵を開陳しているのがこの本なのではないのか。
 例えば「嫌な上司にごまをすったほうが仕事を進めやすいなら、さっさとごまをすればよい。」、「我慢しない、頑張らない、根性を持たない。」あげくはブッダも仕事などせずに菩提樹の下でひたすら瞑想していたから悟りを開いたのであり、一種の引きこもりのようなものである。」などと放言に歯止めがかからない。

 もういい加減止したいのだが、まあもう少し見てみよう。
 <はじめに>にこんな文章がある。
「ただやみくもに努力をして、しかし結果が出ず、それでも苦労に苦労を重ねているうちに、いつのまにか髪には白いものが混じりはじめ、気がついたら定年を迎えていた―なんてシャレにもならない。人生をムダに消耗したに等しい。そう思わないだろうか。」
 ここには、著者は自分自身(彼がそう思い込んでいる)成功者だという思い上がりの気持ちが巧まずに吐露されていて、既にして尻が割れてしまっている。
 人の一生というものは大方こうしたものだろう。そのどこにも人として恥じるところは微塵もない。著者のこの言い方には人ひとりの人生の軌跡がごっそり抜けおちているが、その語られず、抜けおちている部分が実は大切なのだ。生まれて親の庇護(もちろん親の庇護のない場合もある)のもとで育ち、学校へ行き、就職し、結婚し、子供を作り・育て(遺伝子を子が引き継ぐ)、親の介護を引き受け、国に税金や年金保険料を納め続け、やがて病魔に見舞われ、斃れる。例えば、大多数の国民が辿るこうした当たり前の人生を著者は「人生をムダに消耗した」と言って否定する。他人の生き方を自己中心的な人生観によって冷笑とともに否定し去る権利が一体誰にあるというのだろうか。
 
「もっと自分らしい人生」っていったい何か。著者が求めている「自分の人生を生きろ」というスローガンは何を意味しているのか。要領よく会社や官僚組織で出世するか、うまく金儲けして余裕ある人生を大いに楽しむ、これがいい人生なのだ、と著者は言っているように思える。

 人生の苦い真髄を知りたければ、ガルシア=マルケスの短編 『大佐に手紙は来ない』と『火曜日の昼寝』を読むがいい。不条理で救いがなく、情け容赦のない苛酷な社会の状況を、不遇であろうと何だろうと決然として生きようとする凛とした人間の勇気ある姿に強く心を打たれるに違いない。そのとき「このムダな・・・」のような安直な本は粉々にふっ飛んでしまうだろう。
 なお、このマルケスの二つの傑作は、「ママ・グランデの葬儀」(集英社文庫、絶版だが、アマゾンのマーケットプレイスで安く買える)に収められているので是非ご一読を。