「64」横山秀夫著(文芸春秋、'12.10.25)―周到!

 横山秀夫は『半落ち』でのヒューマニズムに傾きすぎたエンディングがどうも肌に合わず、私の中で評価が揺らぎ、私が勝手にランク付けをしていた現役ミステリー系の書き手のトップ3(スリー)の地位を滑り落ちた。
 ちなみにトップの3人は、池井戸潤貴志祐介、そして3人目は空席である。その後に続くのは、宮部みゆき今野敏真保裕一佐々木譲、そして横山秀夫がここに座る。

 横山は、D県警シリーズの『陰の季節』を引っ提げて実質的に文壇にデビュー、主人公に捜査畑ではなく内勤、管理畑の警察官をあてるという斬新なアイデアで私たちの目を瞠らせた。また、それらの作品はTBSなどで次々テレビ・ドラマ化され私も残らず観た。上川隆也石橋凌段田安則、隆大介など芸達者が出演し、原作の筋のよさとも相俟って、みな優れた出来であったと思う。
 本編の主人公はD県警の広報官の三上義信だが、作品集『陰の季節』で活躍した尾坂部元刑事部長、警務課調査官二渡真治、赤間警務部長、白田警務課長、婦警担当係長七尾友子などお馴染みの面々がこの作品でも登場し、脇を固める。
 
「64」お定まりのD県警が舞台となっているが、D県と言うのはいったいどこであろう。海の匂いもしないし、警察庁長官来訪に際して空路を仄めかす記述もないから、空港のない関東近辺(とは限らないが)に絞って考えてみる。
 まず、小説中に地名として具体的に出てくるので、著者の出身大学のある埼玉や千葉、神奈川は除外。考えられるのは、著者が新聞記者時代を過ごした群馬か。しかし<58万所帯、182万人>とか<山間部から駆り出された>などという記述もあり、他に栃木、福島も候補になる。これら3県はみな人口200万人余りである。地形的には山梨も考えられるが、いかんせん人口86万人余りなのでこれは除外。それでも読んでいる際にの印象としては、どうしても神奈川、埼玉が思い浮かぶのだが・・・。
 まあ、実際はそのどれでもないのだろう。分かったのは、県名を特定できないように著者が慎重に気を配って書いているということである。とすれば、フォークナーの作品に登場する架空の土地、ヨクナパトゥファ郡のようなものか。フォークナーの「ヨクナパトゥファ・サガ」になぞらえ、横山の作品群はさしずめ「D県警サガ」とでも言えるのかも知れない。

(以下の記述には、犯人の名前など重要なネタバレが含まれているので、この作品を未読の方は気をつけてださい。)

 64(ロクヨン)とは14年前の昭和64年に起きた翔子ちゃん誘拐殺人事件を指す符丁である。
 さて、この作品は著者が考えに考え抜いた、実に周到な作品で破綻もほとんどない。
 その周到ぶりの一例を、物語の補助エンジン的要素でもある<無言電話>で見てみよう。まず、わけは終わり近くで分かることだが、無言電話の対象となる”ま行”で始まる人物が必要なため、お馴染みの二渡真治ではなく新たに三上義信という広報官を創造する。そして、無言電話の対象とすべく、目崎正人、松岡捜査一課長、その部下の峰岸、三上の部下の婦警の美雲、彼女の先輩の元婦警に村串という”ま行”の人物を複数登場させている。警察関係者は、官舎は当然として自宅の電話を電話帳に載せていないだろうから、無言電話は、彼(彼女)らの同姓の実家や親戚に掛ってきたことにしている。
 また、三上については自宅に無言電話が掛ってくる状況がどうしても必要なので、彼を官舎住まいとはせず、結婚直後から両親の面倒をみるために実家に住んだとし、しかも電話名義が父の三上守之名義で電話帳に載っていたものを、ロクヨン発生直後に父を亡くし、電話帳掲載を打ち切った、と手の込んだ設定にしている。これで、ロクヨンの頃の古い電話帳を用いれば、三上の家にも電話ができるというわけだ。
 脇見運転による重傷交通事件の被害者で、亡くなった銘川老人の自宅の電話に無言の留守電が残っていて、これも一連の無言電話ではないかと仄めかす細かい配慮をしている。
 実家にも親戚にも無言電話が掛ってこなかった”ま行”で始まる人物として望月や森田という警察関係者も登場させているが、これらは”め”でロクヨンの犯人の声に遭遇したので、”も”で始まる人物まで辿る必要がなかった証しとするためである。

 三上宅へ掛ってきた無言電話が家出をした娘の”あゆみ”からの電話だと三上の妻の美那子が思い込んだのは錯覚で、実はロクヨンの被害者の父親が電話帳を使って”あ行”から順番に掛け続けていた一連の経緯に含まれるもので、しかも彼は今回誘拐を企てる犯人であったという落ちが待っている。読者をも錯覚に導くために、まず物語の冒頭で三上夫妻が家出した”あゆみ”と同年輩の娘の死体の確認をするというインパクトのある場面を置いて、無言電話の主がいかにも”あゆみ”であると思い込ませる心理的な仕掛けを置いている。
 ただ”ま行”姓の人物として、珍しい名前が何人か登場してくるのがやや首を傾げるところだ。銘川、目崎、美雲などという姓は余り聞かない。これもよく考えれば、”ま行”には”ま、み、む”までは、真島、牧原、三田、三宅、三島、村野、村田などの普通の名前は沢山あるが、”め”となると急に少なくなるからだろう。すぐ思いつくのは目黒くらいだから、銘川、目崎でも仕方ないのか。美雲というかなり珍しい姓については、小難しいことは言わずに、若い美人(?)婦警に対する著者の好感度イメージの現われと考えればいいだろう。

 破綻もほとんどないと述べたが、強いていくつかの揚げ足取りを試みてみよう。一つは、最初に三上が雨宮宅を訪れたとき、「人差し指の爪は先端がひび割れ、皮膚も含めて血豆のように黒ずんでいた」という記述があるが、これはロクヨンの被害者の父親が発信者の電話番号を特定されないために自宅近くの公園内の公衆電話から、無言電話を掛けまくっていたことの布石的表現であり、本当に指がそのような状態になるのか疑問で、やや不自然な感じがしないでもない。尤も、これは被害者の父の心理の象徴として指の状態で表わし具現化したものと受け止めてれば納得も行く。

 二つ目は、そもそも14年前に聞いた犯人の声を、無数に掛けまくった電話の音声から識別し人物を特定することが果して可能だろうかという点だ。不可能とは言い切れないものの、高度に緊張した不安の極致において、しかも心は娘の安否懸念で頭が一杯の状況での人間の記憶力を考えた場合、これは相当疑わしいと言わざるを得ない。逆にそのような極限状況だからこそ、記憶に明瞭にインプットされたと説明することもできようが、俄かに信じがたいものの、しかしあり得ない話ではない。

 というわけで、実際はどうでもいいことを突(つつ)いているだけで、どうやら揚げ足取りにはなっていないようだ。 
 ただ、もう一つだけあえて言えば、”あゆみ”の存在が狂言回しとか見えず、著者の筆も彼女を遠巻きに周回しているような感じであり、人間像としては血肉が不足している気がする。
 しかし、見方を変えて、最後まで姿を現さない”あゆみ”は世阿弥の夢幻能における幽霊(精霊)のような存在と思えば納得もいく。その場合、三上の妻の美那子がワキだろうか?
 なお、夢幻能における幽霊については別のブログでも書いた。(下記参照)
独断と偏見で選ぶこの世で最も心に響く名曲10選(その9)中島みゆきの「エレーン」

 本作品は、前半で記者クラブとの心理的な駆け引きや、警察組織内における中間管理職の悩みを、三上の心の動きを舐めるように追っていくことで浮き立たせて行く。そのあまりの執拗さと細かさに、ときどき砂を噛むような感じを覚えるが、これはこの作品を成り立たせる予備知識を形成する上で欠くべからざるものであろう。また、三上の心の軌跡を最後まで追うと、この人物が何かしらの成長を遂げて行くのが分かり、一種のビルドゥングス・ロマンのような趣もある。三上はストーリーの進展に従って、人間として、警察組織で自分を失わずに生きる者として一皮も二皮もむけて行く。

 三上は実名報道を巡って記者たちと対立して丁々発止を繰り返していたが、匿名問題にけりをつけるため、ついに交通事故の加害者の妊婦の名前を発表し匿名問題の壁を打ち破る。このシーンはなかなか感動的である。三上の一人の人間としての矜持が記者たちにも読む者にも十分伝わってくる。三上が各方面との様々な軋轢の果てに辿りついたこの決断の場面は、ガルシア・マルケスの『大佐に手紙は来ない』で主人公の大佐が75年の生涯をかけて到達した境地で、大佐が身に纏(まつ)ろう退行的運命を一瞬で慴伏させた魔術のような言葉、「糞でも食うさ」を発した場面を想起したほどである。
 この辺から著者の筆にも勢いがつき始め、表現にも躍動感が出てくる。

 目崎歌澄の誘拐事件に関する、各新聞社の本社から来訪した記者たちを含む大量の記者団と県警幹部と広報部との三者のやり取りは緊迫感に富んでいて、輻輳したストーリーがうまくかみ合って進む。三上が松岡捜査一課長の指揮車に同乗し、事件の推移を追うという設定は秀逸であり、そこからエンディングまでの怒涛のストーリー展開は圧巻だ。
 また「不在」を「人質」にとった身代金奪取計画、いや奪取ですらなく、14年前にロクヨンの犯人が奪ったと同額の紙幣をその犯人の手で灰燼に帰せしめるという筋立てにも雨宮の執念が凝縮されている。そして、狂言誘拐事件がいつの間にかロクヨンの捜査にすり替わるという暗転が行われていて見事としか言いようがない。そこに松岡の言う「外道に正道を説けるのは外道。」の意味が存する。

 かくして本作品により、横山秀夫は私の中における日本のミステリー系作家のベスト3(スリー)に再び復帰したのである。