「ソシュールと言語学 コトバはなぜ通じるのか」町田健著(講談社現代新書、'04.12.20)−ほどよく役に立つ

 この本を手に取ったきっかけというのは、小浜逸郎の「日本の七大思想家」(幻冬舎新書)に大いに啓発されるというかそそのかされて、時枝誠記の「国語学原論」(岩波文庫上下2巻)を読んでみようと思い立ち、早速アマゾンで取り寄せてみたものの、ソシュール言語学の一通りの知識が必要であることにはたと気がつき、都合よく書棚で眠っていた標記の町田健の本を読もうと考えたという、至って怪しい動機からであった。

 ソシュール言語学は、必ず構造主義との関連、というよりは「狭義での構造主義の直接の起源」内田樹「寝ながら学べる構造主義」文春新書)というコンセプトで語られるが、その構造主義というのがつかみどころがなくていま一つよく理解できない。
 まず、構造というものの実体がよく分からない。橋爪大三郎は、「『構造』といっても、骨組みやなんかでなく、もっと抽象的ななもののことである。そして、たぶん、現代数学にいう<構造>の概念と、いちばん似ているようだ。」と「はじめての構造主義」(講談社現代新書)の中で説明しているが、構造主義と銘打った本でさえこのとおり隔靴掻痒の感が強く、まことにおぼろげである。

 紛らわしさを避けるために、ここでは構造主義に言及する時は<言語学構造主義>に限ることとし、その意義と配慮すべき点について、ジャン・ピアジェの「構造主義」(文庫クセジュ)の<訳者まえがき>の次のような記述を頭に入れて議論を進めたい。(共時的傾向・共時態、などについては後述する。)

ソシュール学派の方法論は、言語学を十九世紀の歴史主義から解放し、言語を固有の体系として把握した点に大きな意味があった。」
「だが彼(ピアジェ)は、この共時的研究の成功が、純然たる記号体系という言語学特有の状況に基づいていることに注意して、それを無批判に他の領域へ持ち込むことの危険を警告し、一方では共時的傾向が言語学をあまりに静態的なものにしたことを指摘する。」
 

 では共時態とそれと対となる概念である通時態とはなにか。こうしたソシュール言語学の基本的用語を簡便に理解するには、標記の町田健の本の、特に第1章は便利である。町田の説明は以下のとおりである。
ソシュールは、ある特定の時点ににおけるラングの状態を『共時態』と呼んで、この共時態をを分析することが言語学の第一の目標となるべきだと主張したのです。
 共時態に対して、『あした』という語形をもつ単語の意味が千年前から現在へと時間が経過するにつれて変化したというような事実を『通時態』と言います。」

 ただ町田は、ラング(後出)には本質的に時間性があるのだから、共時態という概念は実際には虚構的概念である、と注意を喚起しているが、虚構的というのは少し言い過ぎかも知れない。

 また、「ラング」を町田の本ではどう説明されているか。
「人間がコトバを使う時に現れてくるさまざまの現象のうちで、同じ意味が伝達される過程に本質的に関わってくる要素こそが重要なのであって、ソシュールはこれを『ラング』と名づけました。」
「個別言語を作っている要素のうちで、同じ意味の伝達に関係してこない要素については、ソシュールはこれを『パロール』と呼びました。ラングとパロールを合わせた個別言語の全体像が『ランガージュ』です。」

 なお、町田は<言語>を個別言語を指す用語に、<コトバ>を人間のコトバ一般を指す用語として使い分けるとしているが、<言語>をラング、<コトバ>をランガージュと置き換えて理解すればいいであろう。
 なお、丸山圭三郎は、<ランガージュ>を「人間のもつ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化の能力およびその諸活動」、<ラング>を「個別言語共同体で用いられている多様な国語体」のことであると言っている。(丸山圭三郎ソシュールの思想」岩波書店
 ラング、パロール、ランガージュの概念はそれぞれの関係や体系の中での立ち位置により様々な面貌を見せ、理解するには複眼的な考察が必要なので、これらの詳細については丸山の前掲書を読み込んでいくしかない。

 町田の文章はやや平板でメリハリに乏しく、文章は無味乾燥であまり熱が入っている感じがない。しかし、基本概念の用語の説明についてはよく整理されていて、基本知識を得るのにほどよく役に立つ。またシニフィアンを表示部、シニフィエを内容部と名づけて、従来の能記、所記などという訳語よりよほど理解しやすいよう工夫もしている。 

 他の本での説明を見てみよう。橋爪は前掲書で共時態と通時態についてこのように説明している。
「歴史を捨象して、ある時点に釘付けした言語の秩序を、共時態と言う。(それに対して、共時態からつぎの共時態へ、変化していく言語の姿を、通時態と言う。)言語学はまず第一に、共時態を研究対象とすべし、とソシュールは言った。」
 この説明は町田のものに比べて文章に工夫があって分かりやすい。

 一方、「ラング」について橋爪は、上記のように述べた上で次のように説明する。
「これだけでは、限定がまだ不十分である。そこで、彼は、こう続ける。共時態のなかでも、人びとに共通に分けもたれている規則的な部分(ラング)を、まず対象にしよう。そして、個々人にゆだれらねている部分(パロール)について考えるのは、あと回しにしよう。」

それに続けて、橋爪は「まあ、この辺のもっと詳しい話は、丸山さんの「ソシュールの思想」でも読んだ補ってもらうとして、・・・。」と言って、丸山圭三郎に下駄を預けてしまっているが、その直後に<言語の恣意性>や<シニフィアン/シニフィエ>というソシュール言語学上の重要な概念についても言及している。
 これ以上詳述はしないが、橋爪の説明は座談妙手という感じのする謂わばクセ球で、町田の生真面目な直球と比べて読んでいて面白い。両方を併せて読むことで知識は一層深まるだろう。

 町田の本は第1章は、ソシュール言語学の最低の知識を得るのに役立つが、第2章以降、つまりソシュール言語学の継承者たちについての部分になると、小冊子という制限のせいか、駆け足の解説が初心者にはいささか要約され過ぎていて、少々理解が辛い。
 また、期待していた時枝誠記の<言語過程説>への言及もやや簡略に過ぎて、気のせいか腰が引けている感じが否めず、やや拍子抜けであった。この辺は、丸山「ソシュールの思想」に当たるしかないであろう。

 さて、最初の部分で述べた疑問、ソシュールが始めた言語学がなぜ構造主義と言われるようになったのかということについて、町田は以下のようにいたって明快な説明をしている。

               *                    *

 一つの言語に完全な同義語がないとすれば、その言語が持っているすべての単語の意味はそれぞれ異なっていることになる。だとすると、ある単語の意味は他の単語の意味との関係で決定される。ソシュールは、何らかの対象が作る集合で、その要素の特徴(ソシュールの用語では「価値」)が他のすべての要素との関係で決まってくるという性質をもつものを『体系』と呼んだ。ある言語がもっている単語の集合は、それぞれの単語の意味(単語にとっての価値)が他の単語との関係で決まるのであるから、この定義からして体系だとすることができる。(この説明はものを書くという観点からはよく分かる。)
 町田は以上のように述べた上で、
「どうして『構造主義』という名前が使われるようになったのかというと、ソシュールの言う『体系』と同じ意味で『構造』という用語を使うのが一般的になったからです。」と述べ、ソシュール自身は『構造』という用語を使ってコトバの性質を説明したわけではないが、ソシュールの学説がヨーロッパの思想界に大きな影響を与え始めた第二次大戦後、1960年代以降に、ソシュールのいう『体系』と同じ意味で『構造』という用語を使うのが一般的になった、と説明する。成程そういうことか。

 もっとも、前掲の「構造主義」の中で、ジャン・ピアジェは既にこのように言っているのだ。
「固有の意味での言語学構造主義は、フェルディナンド・ソシュールが、言語(ラング)の過程は通時態に還元されないこと、そしてたとえば、ある単語の歴史はしばしばその現在の意味を理解させるにはほど遠いことを示した日に生まれた。その理由は、歴史のほかに《体系》(ソシュールは構造と言う語を使わなかった)というものが存在するからであり、そのような体系は・・・、また歴史の各時点において共時態に属するものだからである。」

 まあ、これ以上は、橋爪にならって丸山圭三郎の著作へ移った方がよさそうだ。
 余計なことだが、丸山の「ソシュールの思想」で彼の生涯を見ると、ライプツィヒ大学に4学期2年間、ベルリン大学で約1年間を過ごしている。さて、私の身内の某女だが、フンボルト大学ベルリン(旧、ベルリン大学)に1年間学び、今はライプツィヒ大学で2年目の学期を送っているところは、ソシュールの経歴との奇妙な暗合と言えなくもない。