死ぬ気、まんまん!(「週間現代11.05号の”大研究シリーズ”のタイトル)

 なぜだろう?「週刊現代」も「週刊ポスト」も、最近立て続けに『死』に関する特集を組んでいる。その記述の傾向はほぼ一致している。悪あがきしないで、時宜を得た人生の終焉へ向けて達観することの薦めといったところだ。例えば、
1 「週刊現代」 2011.11.5号 <著名人10人が明かす 死ぬ気、まんまん!
2 「週刊ポスト」2011.12.2号 <告白 愛子センセイ、88歳「わたし“老後”やめました」
3 「週刊現代」 2011.12.3号 <人生、最後が肝心 死に損なわないために

 

 1と3は、大研究シリーズと銘打った特集である。これらはみな、万人の身に必ず訪れる『死』を、いかにして納得して受け入れるか、何が何でも延命をして生きながらえようと醜態をさらすことなく、「いい時に死にたい」という、ある種の幸福論と言っていいだろう。そのためには、一定の年齢に達した時の覚悟の決め方が大事だと説く。
 ここに登場し、「人生最後が肝心」と語る人物は、いざ、死に直面しても全くたじろぎそうもない、日本でも一流の「人生の達人」(1の紹介文より)ばかりなのである。
 例えば、帯津良一鳩山邦夫、広岡達郎、早坂暁池田清彦島田裕巳三浦朱門加賀乙彦今井通子、釈撤宗、佐藤愛子山田太一藤村俊二、木谷恭介、高橋恵子林望、の各氏。
 中でも、最も心に響いたのは、池田清彦氏の「だいたい60歳を過ぎて、それ以上長生きしても仕方がないと思う」という言葉だ。さすがに生物学者らしい感懐で、「人間以外の動物も、死を避けようとする。池田氏によると、それは子孫を残すチャンスを失わないための行動で、人間のように死そのものを怖れるわけではない。」という記述が続く。人間も他の動物と同じ”生物”のはずだが、人間には『死』を宗教や観念的な哲学のテーマとしてしまう抜き難い属性がある。あらゆる人間にとってこの属性は不可逆で、池田氏のように達観するには強い意志力を振るうか、あるいは宗教の力を借りて、大脳新皮質に巣食う厄介な障壁を乗り越えていかなければならないであろう。

 3の記事の中では、木谷恭介氏が83歳で挑戦した断食による“緩慢な自殺”の試みを拝読して、人としての崇高さを感じた。

 しかしこうした考えが世の中に現れて来たのは、時代の流れであろうか。昨今、巷には健康情報がこれでもかと溢れ、読めば健康になるとばかりに健康雑誌が信じられないくらい多く刊行されていて、もはや雑誌の名前も覚え切れないほどである。(以前は「壮快」だけだったような気がする。)
 テレビでは万能の名医が颯爽と登場し、その驚くべき手腕が健康願望の亡者から喝采を浴び、あまねく健康への執着が巨大な国民的リクリエーションとなり、一方で製薬・医療という官僚と手を組んだ巨大かつ強固な利権集団が存在し、莫大な国費が無制限に蕩尽される構造となっている。いまや医療費を始めとする社会保障関係費の増大で国が沈没しつつある。一体いつから日本はこうなってしまったのだろう。
 余談だが、100歳になってもなお、某大病院のトップの地位に鎮座し、その健康ぶりが満天下に喧伝されている人物がおられる。その生き方には十分敬意を払うものの、一方マスコミによるそのご長寿ぶりの取り上げ方で、世間に多くの誤解と幻想を振りまくことになっているのも事実である。

 政治家、官僚、経済人、国民ともども、既得権は確保したまま負担増が嫌では何らの妙案も浮かばず、同じ泥舟に乗り合わせて、ただ互いに顔を見詰め合うだけである。 

(なお蛇足だが、「死ぬ気まんまん」は、勿論、今年6月に出版された絵本作家の佐野洋子さん(10年11月5日逝去)の著書のタイトルを借りたものだろう。)