「大往生したけりゃ医療にかかわるな」中村仁一著(幻冬舎新書、’12.01.30)

この手の本にはいささか食傷気味だ。幻冬舎新書は死に関する本を随分熱心に刊行している。このブログで紹介するのも、「死にたい老人」及び「日本人の死に時」に続いて三冊目である。それでも自分が年を取ったせいか、つい手を出してしまう。

 しかし、<はじめに>を読んで、以下のような強く共感できる見方に遭遇し、大いに興味を引かれて読み進むことになった。
 著者は、本書の中で「認知症」という言葉を一切使わず、旧来のとおり”ぼけ”などと表現すると宣言しているが、全く同感だ。大体、”ぼけ”も”痴呆”もあまりにリアリティに富んでいるために、愚かな言葉狩りにあって居場所を失った言葉なのだ。
 同様に、「認知症」と並んで「統合失調症」という名称もわけの分からない用語である。もとは「精神分裂病」といったが、患者団体の抗議で、事なかれ主義の官僚が「統合失調症」などという意味不明の病名を認めてしまった。これも「精神分裂病」がリアル過ぎる言葉だからだろう。
 もう少し詳しく言えば、精神分裂病という病名が、いかにも理性が分裂していると誤解されてしまうケースが多いとして<全国精神障害者家族会連合会>(全家連)が社団法人日本精神神経学会に要望を出し(1993年)、2002年に同会の議決で統合失調症に変更、厚労省も新しい名称の使用を全国に通知したという経緯がある。(なお、全家連は2007年に自己破産している。)

 私は仕事柄、常住的に障害を持つ患者や認知症高齢者に接しているが、私自身は高齢のくせに医者も薬も検査もあまり好きではない。身近であるがゆえの不信感がある。例えば血液検査の基準値である。そもそもいかなる体型・体質の人でも一律の標準をあてはめて評価するというのは実に奇怪な話ではないか。BMI(肥満度)もそう、メタボリックシンドロームもそう。巷間まことしやかに囁かれているのは、製薬業界と医療業界と厚生行政が仕組んだ陰謀だということだ。(まあ、話としては面白くできてはいるが・・?)

 さて、肝心の中身だが、サブタイトルにもあるとおり、徹頭徹尾「自然死のすすめ」である。著者の主張を<思想>であるとすれば、この書を貫いている思想は、”人間は生物学的存在である”という視点を大きな柱とする。お釈迦様が看破した人間存在の本質である「生・老・病・死」という根本思想をしきりに引用して自らの世界観のバックボーンとしている。
 著者は長寿社会を一面”長寿地獄社会”と見立て、生きものは繁殖を終えれば死ぬべき存在であると言う。そして、長年の医療者としての、また特別養護老人ホームの医師としての経験から極めて説得力に富む様々な考えや提案を次々と披瀝する。
 これらを概ね”善し”としよう。現代社会に蔓延している極端な健康志向、医療万能の風潮が欲の皮の突っ張った妄念であることを明らかにしてくれるのは善い。

 ただ、著者は考えを説得力あるものにするため、ことさら人間の生きものとしての在り方を強調する。しかし人間は、”生物学的存在”であるとともに、いやそれ以上に、誤解を恐れずに言えば”霊的存在”でもあるのだ。(当然ながら、悪霊も含む。)
 多少なりとも知能を持つ生きものは、人間の他にも多く存在する。だが、例えば”倫理観”などの抽象的な価値観に関する意識は人間にしか存在しないだろう。
 霊的という言葉に抵抗があるとするなら、スピリチュアル(spiritual)と言ってもいいだろう。この方が霊的よりも広い概念だ。例えば、天皇陛下は日本で随一のスピリチュアルな存在である。昭和天皇の御不例から御崩御に至るまで、国民がその病状の報道に心を痛め続けたことは記憶に新しい。スピリチュアル存在はどんな手段を講じても、可能な限り生き続けなくてはならない責任を負っているのである。そこが、ただの生物学的存在とは違うところだ。