「人間的強さの研究」(小島直記)と「読書について」(ショーペンハウエル)を読んで考える、”本を読むことは良いことか”

読書日記と称するものを書いているが、いつも脳裏を去らぬ大きな疑念がある。 それは、ざっくりと言って”本を読むことはそんなに良いことなのか”という疑念である。
 小島直記の「人間的強さの研究」(竹井出版、平成3年5月)は私の愛読書の一つだが、その第一講<『臨済録』の世界>には住友の大番頭であった伊庭貞剛が登場する。小島直記氏の記述を中心に、伊庭の人生の一大事と本を読むことに関わる部分を少し記してみる。

 伊庭貞剛は弘化4年(1847年)近江の生まれで、明治元年に師の西川吉輔の推挙で新政府に出仕、以後司法畑を歩いたが、大阪上級裁判所の判事を最後に、官吏の世界に失望して辞職する。故郷の近江に帰ろうとして叔父の広瀬宰平に挨拶に行ったところ、当時住友の総理事であった広瀬の勧めで住友家に奉公することになる。明治12年、彼が33歳の時であった。

 明治27年、伊庭47歳のとき、社命を受けて紛争(ストライキ)の最中にあった別子銅山へ鉱業所支配人として乗り込むことになったが、事に臨んで伊庭という人間の思考は”死”という覚悟に到達する。その際自分の死によって困る妻や子供の行く末を頼みに、親友であり天竜寺の管長であった峩山(がざん)という坊さんのところに行ったのだが、その際伊庭が「山に行って何か読むものが欲しい。読むものを推薦してくれ」と言った。峩山は「あまり本なんか読まんほうがいいぞ」と言ったけれども、せっかくの頼みだからと渡したのが『臨済録』であった。親切にも峩山は、読まなくていいところは全部こよりで綴じて「こよりで綴じなかったところだけは一生懸命読めよ」と言ってくれた。
 伊庭は、峩山に指示されたところだけを四国へ渡る船の中や別子の村で構えた小さな庵で一生懸命読むことになる。伊庭の伝記の決定版である西川正治郎の『幽翁』で、伊庭が『臨済録』を読んで「思わずこれだと歓喜した」とあり、筆者の小島はここは多分「随処に主となれば、立処(りっしょ)皆眞なり」というところではないかと推測している。

 『臨済録』のことは措いて、「あまり本なんか読まんほうがいいぞ」という言葉の意味は、要は本ばかり読んでいると心が軟弱になり修羅場に立った時に断固とした行動力を欠くことになる、ということか。それとも、そもそも読書というものの効用を認めないということか、また読むに値する本は極めて少ないということ、つまり限られた少数の本だけ読んでいれば十分という意味なのか。この辺は色々考えさせられる。

 小島氏のこの本には、伊庭の叔父の広瀬宰平の教養についても筆が及んでいる。
 広瀬が生涯で読んだ本は唯一冊のみ、「経典余師」という四書(大学、中庸、論語孟子)の通俗解説書である。広瀬は学校はどこへも行っていない。鉱山で一番下っ端で働いている頃から給金が出ると、それをためてこの本を買った。そして暇があればこの本を読む。本の綴じ糸が切れてバラバラになるとまた給金をためて同じ本を買う。彼が生涯を通じて読んだ本はただ一冊である。しかし彼の識見、勇気たるや、今日の多くの本を読んだと称するインテリよりも余程優れていた。
 信長や秀吉も本を読んだという形跡はない。彼らは一体何を読んで英雄になったのか。簡単に言えば、彼らは直接”世界”を読み切り、徹底的に”思索”を深め、たぐいまれな洞察力と何ものも恐れぬ胆力と神速な行動力を獲得したのであろう。

 古今の読書論で私が心酔しているのは、ショーペンハウエルの「読書について」(斎藤忍随訳、岩波文庫)である。
 今(11月8日、pm8:00〜10:00)BSフジのプライムニュースでTPPを巡る議論が、マクロ経済学ミクロ経済学の多くの著書のある東大経済学部教授の伊藤某氏と経済外交のタフ・ネゴシエイターであった海千山千の元大蔵官僚の榊原某氏の間で戦わされているが、前者が東大教授で経済学界の重鎮といわれるにはあまりに人の良い、ナイーブな議論を展開しているので驚く。世の中の複雑怪奇な事象を、経済モデルのような、当ったためしのない単純な理想型(あるいは空想)に当てはめて解釈しているようにしか思えない。片や元高級官僚は、事態の裏側をも一種意地悪な目で観察していて、良くも悪くもリアリズムに徹している。この問題に限り後者の言っていることの方に説得力を感じる。ちなみに前者は積極的な参加を主張し、後者はあわてて参加する必要はないという見解をの述べている。
 学者という人種については、読書に関連してショーペンハウエルが面白いことを言っている。少し長いが引用してみる。

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。・・・だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。・・・だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実情である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。」
「したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。」
 
 彼の言葉の背後に、どうしても生涯の仇敵であったヘーゲルの影を見てしまう。言葉が激越になる部分は尚更である。しかし、それを考えなくても、ショーペンハウエルの言葉には常に世の偽善を切り割く危険な刃のようなものが見え隠れしていて、読んでいて痛快である。