「日本人の死に時」(久坂部羊著:幻冬舎新書、07.1.30) 国家による建前論の制度設計が介護保険制度を危機に陥れている

医師であり作家でもある著者が、自らの臨床体験から、長寿社会を誇る日本の高齢者にとっての、あるべき終末観について平易かつ明晰に語った書。5年前の著書であるが、著者が医師として多くの老人の死を看取ってきた体験に基づく苦渋に満ちた分析と考察に、むしろ今の時代の方が近づきつつあるのではないか。この書の問いかける重い課題は、急速に高齢化社会に突き進んでいる日本に住む私たちにとって、今やますます切実となってきている。
 私ごとながら、精神科病院と介護老人保健施設を経営する医療法人社団に10年近く(現在も)勤務してきている身にとって、著者の語る現代の日本社会における老いと死についての考察は人ごとではなく、分かり過ぎるほどよく分かる。

 ここで簡単に各章を概観してみる。
 
第1章<長生きは苦しいらしい>
 ここで著者は、10年前(この本は06年10月の擱筆であるから、96年ころに当たる)の老人デイケアを中心としたクリニックでの体験から語り始める。介護保険制度が始まったのは00年であるから、まだそれ以前の介護施設での経験である。この当時は在宅介護に重点を置いて策定された、厚生労働省の「新ゴールドプラン」(94年〜99年)の時代である。(「新ゴールドプラン」とは89年に策定された「ゴールドプラン」を全面改定した「高齢者保健福祉5ケ年計画」のことである。)
 この章では、”リアル長生きシュミレーション”として、長生きで現れる症状が生々しく語られる。
 ▼排泄機能の低下
 ▼筋力低下
 ▼歩行困難
 ▼関節の痛み(例:股関節拘縮)
 ▼うつ病
 ▼不眠(例:前立腺肥大による夜間尿)
 ▼呼吸困難(例:慢性気管支炎、肺気腫
 ▼めまい・耳鳴り・頭痛
 ▼嗅覚・味覚障害
 ▼麻痺・認知症(例:脳梗塞脳出血脊髄小脳変性症、筋委縮性側索硬化症、骨粗鬆症による圧迫骨折、パーキンソン病リュウマチによる麻痺、アルツハイマー病・ピック病・脳血管障害・アルコール依存症・脳腫瘍などによる認知症

 また著者は、昨今のバラ色の長寿礼賛情報の氾濫に警鐘を鳴らし、こうした最良の可能性ばかりでなく、上述のような厳しい老いの現実という最悪の可能性をもしっかりと認識すべきであることを強調する。

第2章<現代の「不老不死」考>
 ここでは、最初にアメリカで始った抗加齢アンチエイジング>の本格的研究についての記述があり、それを取り巻くやや胡散臭い抗加齢ビジネスとしての<アンチエイジング市場>の分野が紹介される。全米での市場規模は2百億ドルを超えると言われる。(この本の書かれた06年ころの情報)
 様々な分野の中では、日本では特にサプリメントの分野が突出しているとあるが、それは最近のテレビ・コマーシャルを見れば分かる。本書によれば、グルコサミン、コンドロイチンはアメリカの大学の研究では”無効”とされているとのこと。また著者は、大豆レシチンマルチビタミンも効かないと言う。更には抗加齢ドックの危険性にも筆が及ぶ。
 こうした現象の根底には、欲望の優先があると著者は指摘する。ここに抗加齢ビジネスが紛れ込む隙があるようだ。いつまでも若くいたい、元気でいたい、いい生活をしたい、出世したい、ワンランク上の幸福を手に入れたいという欲望は、節度をもって抑えて行かない限り果てしなく拡大していく。

第3章<長寿の危険に備えてますか>
 ここでは、医学の進歩により簡単に死ねなくなったために高まる長寿の危機について述べられる。
 即ち、虐待の危機、孤独と憤懣の危機、自殺の危機、マスコミに踊らされる危機、オムツはずしの危機などがそれである。

第4章<老後に安住の地はあるのか>
 著者が実際診療に携わっている”グループホーム”の救いのない実態が主に語られる。救いのない、というのは、入居する認知症のご老人にとってもそれを介護する職員にとってもである。
 ただ著者は、こうした施設を経営する企業に対して営利追求として批判の矛先を向けるが、責任の多くの部分は制度を作った国にある、と言わねばばらない。診察をする医療者としての著者が語るような体験を基にすれば、こうした見解が生まれるのも無理はない。しかし、診療報酬などに比べても安く抑えられている介護報酬では民間の介護事業者は、極めて厳しい経営状態に置かれているのも事実だ。
 00年に始った介護保険は、実態にそぐわない建前(擬制)の上に成り立っている、とつくづく思う。例えば、(私も勤務している)介護老人保健施設は、建前上は、病院と在宅との中間施設と位置付けられているが、実際入居して在宅へ移行する方はほんの数パーセントに過ぎず、大部分は”特別養護老人ホーム”の空きを待って待機しているだけだ。特養の待機がまことに長く、その間に合併症を発症して転院先の病院で亡くなられる方も多い。
 現在の日本の家庭事情からは先ず在宅など出来る筈がない。昨今の不景気で収入の下がっている家庭では、夫婦共稼ぎが常態で、昼夜を問わず介護の必要な親の面倒など看れる余裕がない。夫婦どちらかが仕事を辞めて介護に専念すれば、収入も下がり、介護をめぐる家庭内の不協和音も高まり、結局家庭崩壊と言う地獄が待っているだけだ。
 毎年1兆円を超す社会保障費の増大に対して何の打つ手もない国は、先ず介護報酬を可能な限り抑制して、次に消費税に頼るという、小学生にさえ嗤われるような単細胞としか言いようのない方法しか頭に浮かばない。これは高学歴、高偏差値官僚の陥る罠である。困難な状況に対して突破力のない彼らに導かれているわが国は、何の秘策も、思い切った改革案も打ち出せないままじり貧になって行くばかりである。

 最近、週刊誌(「サンデー毎日」3.11号)で、<「施設から在宅」介護の欺瞞>と題する記事を目にした。(筆者は、同誌の藤後野里子氏)
 05年に厚労省が打ち出した”在宅死を4割に引き上げる”という方針に続いて、昨年6月に決定した”税と社会保障の一体改革”は、国の介護費・医療費の削減したいという意図に基づくものであるとして、その欺瞞性を剔抉した優れた記事である。
 さらに、多くの国民の自宅で死にたいと言う思いを逆手にとった国の在宅医療の推進は、公的な医療や介護のコストを減らすことだけが目的だ、という某医療クリニックの院長の見解が示されているが、全く同感である。
 詳しくは記事を見て欲しいが、筆者は最後に以下のような見解を示し、「施設から介護」という一見美しく、高齢者の希望にも沿うスローガンの下、インフラが整わないまま在宅へ突き進むのは国民を欺くものではないか、と大きな疑問を投げかけて記事を終えている。
「迫りくる多死社会では死に場所探しも「自助」で乗り切るしかない。」

第5章<敬老精神の復活は可能か>はスルーして、

第6章<健康な老人にも必要な安楽死
 著者は、デイケアでの老人の診察の体験を語り、PPK(ピンピンコロリ)という”理想の老人ライフ”に筆が及ぶ。
 そして、日本の安楽死土壌、終末期の患者と医師との葛藤について述べる。また安楽死には表の安楽死と裏の安楽死があることを指摘する。前者は積極的安楽死、つまり人工呼吸器を外す、塩化カリウムの注射、筋弛緩剤やインシュリンの致死量投与などの必ず死に至らしめる方法を指す。一方裏の安楽死とは、病状が必要とする大量の鎮静剤の投与、また強心剤の中止、透析や血漿交換や人工呼吸の見送り、栄養の漸減などを言う。
 しかし最近は、無駄な延命治療を求める利用者の家族も減ってきているようだ。老人介護の世界にも身を置く私も、実感として分かる。延命治療には色々あるが、老人介護で主に問題になるのは人工呼吸器と胃ろう(PEG)である。
 著者の臨床経験からの事例で語られる患者の耐え難い苦痛を前にした医療者の苦悩と迷いは、著者の医師としての、同時に人間としての誠実さがよく現われていて、読む者の胸を強く打つ。

 そして、第7章と第8章こそがこの本のキモである。
 第7章<死をサポートする医療>で著者は、医療者の立場から「多くの医師は、病気を治すことしか考えていません。だから、患者の死からはできるだけ目を背けていたい。死に行く患者や老人は、ある意味で医師にとっては敗北の象徴なのです。」と述べた上で、
「どこかで、生かす医療から死なせる医療にハンドルを切らなければならない。治すことばかり考えている医師には、その発想がありません。適当な時期に上手に死ぬためには、それを支えてくれる専門家が必要です。それが”死の側に立つ医師”です。」と続ける。
 著者が「昔はみんな家で安楽死していた」として近代医療の発達する前の自然に任せた静かな死を理想と考えている様子は、まるで孔子が昔の周の時代に理想を見出して憧れていた姿を彷彿とさせる。やはり、在宅医療で多くの死を看取ってきた著者の話には強い説得力を感じる。
 私ごとだが、私の父も母(二人とも明治の生まれ)も自宅で、長い闘病生活の苦しみを味わうことなく、静かに死んで行ったことを思い出す。昔はこれが当たり前だった。当時は人間ドックもなく、血液検査もほとんどやっていない。血圧なんかもあまり計ったこともなかっただろう。それでも父は68歳、母は82歳までボケることもなく、紙おむつや介護の世話にもならずに天寿を全うしたのである。

 最後の第8章<死に時のすすめ>は、著者の終末観の総まとめであり、思い切った提案が披歴されている。
 先ず、著者の言う「死の達人」2人の死にざまが紹介される。
 一人目は、内科医の丸山理一氏である。氏は癌による死を冷静に受け入れ、「ある年齢以上になった場合、一年位で確実に死ねる癌に因る死を(特に悲惨な何年もかかる死を知っている医師には)歓迎すべきものと感じられることもあるのではないでしょうか?」と死を前にして書いたエッセイに記している。
 さらに、死への恐怖心についても、死ぬ前の気持ちの変化をこう述べている。
「一般に、動作も精神的な反応も鈍くなり、死に対する反応も鈍くなるようで、元気で健康な人の死に対する恐怖とは、少し死に対する感じが違う要です。」

 二人目は、作家の富士正晴氏である。ここに描かれた同氏の見事な死に方は、まさしく”死の達人”と言うにふさわしい威厳さえ感じます。
 富士氏は、同人雑誌「VIKING」(ヴァイキング)の創始者で、著者もこの雑誌の同人として、富士氏が亡くなるまでの4年間その謦咳に接してきたさまざまなエピソードが語られていて、つくづくこうありたいものと嘆息した次第。
 富士氏は無類の酒好き、医者嫌い、散歩が身体にいいと聞くと散歩をやめ、全てを自然の経過に任せていて、歯が抜けても歯医者には行かず、死ぬ前には歯が1本だけになっていたそうである。編集者と明くる日飲む約束をして、その日の晩に本人も気づかないうちに死んでしまう。
 著者が引用した同氏のエッセイの一文を下記に記す。
「ずっと健康で、しかも余り長寿にならぬうちにポコリと死にたいのがわが望みである。ただし、そううまくいく方法がこの世にあるとも思われない。ケ・セ・ラ・セ・ラか。」これを書いたのは66歳で、享年は74歳。

 最後に、著者の厳粛な結論と苦渋に満ちた提案が行われる。
 著者は、昨今の老人がらみの悲惨な事件によりどうしようもない苦難を強いられている多くの老人を目にして次のように問いかける。
「我々の社会に、この超高齢社会を支えるだけの実力はあるのかと。」 
 著者は、介護も医療も、資源であり、無尽蔵にあるわけではない、とした上で、老人や病人が増えすぎて重要と供給のバランスが完全に崩れている、という認識を示す。
 しかし世の中はますます需要を増やす向きに動いているようだとして、日々困難な状況に直面している医師としての立場から、つまるところ、需要を減らすことに考えが傾いてしまうのだ、と言う。
 
 そして、介護の需要はなぜ増えるのかと問い、それは老人が健康寿命(男性72.3歳、女性77.7歳)を過ぎて、介護が必要になってからも長生きするからだと断ずる。健康寿命と平均寿命(男性78.4歳、女性85.3歳)との差、つまり男性6.1年、女性7.6年が介護を要する期間であると言う。
 老いて身体の不具合が出てから、無理やり命を伸ばされる苦しさから解放されるために、著者は「ある年齢以上の人には病院へ行かないと言う選択肢」を提案する。
 著者は、病院へ行かない利点を次のように述べる。
1.濃厚医療による不自然な死を避けられる。
2、つらい検査や治療を受けなくてすむ。
3、よけいな病気を見つけられる心配がない。
4、時間が無駄にならない。
5、お金が無駄にならない。
6、精神的な負担が減る。

 著者には、自分もそうである医師による治療に根本的な疑念(あるいは限界)を感じているようだ。
「医師は自分の病気を治療も予防もできなくて、どうして他人の病気を治せるでしょう。」
 そして、重大な指摘をする。「文明は進むばかりが能ではありません。人間を幸せにしないのなら、ある部分を捨てることも、また文明の知恵であるはずです。」

 著者は、病院に過大な期待を持つことを戒め、自然の寿命を大切にすべきと言う。それが楽な最後を迎えるのに必要だからだと。
 しかし多くの人は、長寿を望んで命を削るような生活をしているとし、人々の不安につけ込む健康長寿ビジネスを強く批判し、返す刀で医療の安全性と有能さを大々的に喧伝する医療界にも批判の矢を向ける。

 終りに著者は、寿命を超えた長生きにはろくなことがなく、死ぬにも死に時があると言う。そして吉田兼好良寛の言葉を引用する。
「あかず惜しと思はば、千年(ちとせ)を過ぐすとも、一夜の夢の心ちこそせめ。住み果てぬ世に、みにくきすがたを持ちえて何かはせむ。命長ければ辱多し」(「徒然草より)
「災難に逢う時時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」良寛の手紙より)