「レッド」今野敏(ハルキ文庫、オリジナルの単行本は1998年刊)は、福島原発事故の預言の書か?

 内田樹によれば「いくつか例外はあるが、全体として文学作品は売れていない。なぜか。身も蓋もない言い方をすれば、それは提供されている作品のクオリティが低いからである」(中央公論11月号「地球最後の日に読んでも面白いのが文学」)
 さて、作家今野敏はどうか。「レッド」で検証してみよう。

 今野作品では、以前「隠蔽捜査」「果断 隠蔽捜査2」を面白く読んだ記憶がある。彼の作品は読み始めるとどこか人を夢中にさせるものがあって、読み終えるまで途中で止めることができない。この2作品は佐々木譲の「警官の血」などと並んで、警察物の最近では出色の作品で、出来映えにおいては今全盛を誇る凡百の警察小説と比べ一頭地を抜いている。

 今野作品のエンターテインメントとして優れたところは、先ず何と言っても天性とも言えるプロットの組み立ての巧みさが挙げられる。そして登場人物のキャラクターが明確化されていて、人物像の複雑さに悩むことがない(ただし、これは欠点にもなりかねない)。ストーリーの運びが明快かつ簡潔で、映画を思わせるすばやい場面転換が快い。作品はほとんどが、リーズナブルな分量に収まっていて、京極夏彦のような鬼面人を驚かす巨大なヴォリュームに辟易することもない。分かりやすい会話が続き、地の文もセンテンスが短い、など。

「レッド」が今日的意義を持つのは、核物質がプロットを構成する上での重要なキーとなっていることである。人体が放射線によって影響を受けるメカニズムについて登場人物の口を通じて明快かつ詳細に語られており、シーベルトの値の大きさによる身体へのダメージについても具体的で詳しい。私の能力ではこの辺の科学的な評価は出来ないが、今回の福島第一原発事故の報道などで知り得た限りにおいて、この記述には説得力を感じる。

 この作品の題名「レッド」は、作品に登場する核物質”レッド・マーキュリー”(赤い水銀、RM)からとっている。RMは旧ソ連が開発した水素爆弾中性子爆弾の材料とされる奇態な物質だが、実際はKGBの創作などとの話も飛び交う、ほとんど噂の域をでない代物である。この作品ではこのRMが物語の陰の主役となっている。ソ連崩壊の混乱時にRMを密かに買い入れたCIAや軍関係者が極秘裏に日本を中継地として搬出しようと計画していた途中で、クリントンが大統領に当選し、彼がこの計画を認めなかったため計画がとん挫する。一方的な取引破棄もできず、かといって今更アメリカ国内に持ち込めなくなったことから、困ったペンタゴンなどが日本の有力政治家を通じて日本の山形県の戸峰町の小さな沼の付近に埋めることになった、という事情が物語の背景になっている。

 環境庁の外郭団体に出向していた警視庁刑事と陸上自衛官の2人が沼の環境調査を命じられ、戸峰町に赴くところからストーリーが始まり、町長、助役、有力な国会議員 、新聞記者らが入り乱れ、またアメリカにも物語は波及し、クリントン大統領や軍や情報機関のお歴々が登場して波乱万丈の展開になる。文庫の帯にあるように、”国家を揺るがす陰謀”が次第に明らかになっていく。ここには、中央官庁の外郭団体と天下りの実態や、地方の利権を支配してそれを政治権力の源泉としている有力政治家、国家観や愛国心や正義など、極めて今日的な日本の問題が、読者の興味を引くように随所に編み込まれているのが心憎い。

 また、被曝の問題が語られるが、原発事故ではないものの、管理の困難な核関連物質による放射能被害という点では、読んでいて矢張り福島第一原発事故に頭が向いてしまう。”東海村JCO””福島第一原発””もんじゅ”などのそれぞれの事故のありさまをを見ると、人間には核物質をきちんと管理する能力がそもそも欠けているのではないか、と思ってしまう。

 興味深いのは、物語の終り近くで、重要登場人物の一人である戸峰町の助役の幸田が興奮してまくしたてるアメリカに対する呪詛の言葉である。もしかして、助役の口を借りた著者の思いかもしれないが・・・。少し長いが引用してみる。

アメリカはいつもそうだ」
 幸田はうなるように言った。「何でも日本に押しつけてくる。まだ占領しているつもりでいるんだ」
「その発言は少々問題ですね」
「実際そうじゃないか。アメリカのやつらは、どんなことでも日本は言いなりになると考えている」
 幸田はまくしたてた。なんで日本が米軍基地の維持費を払ってやらなきゃならないんだ?湾岸戦争のときだってそうだ。最初に10億ドル、ついで30億ドルもの金を出した。国民の血税だ。だが、アメリカはこの金に対して礼を言ったことは一度もない。しかも、この金がどこに使われたか誰も知らない。一説では、ワシントンのロビイストたちにばらまかれたといわれている。
 幸田はしゃべるうちに興奮を募らせた。

 ドルショックのときだってそうだ。ニクソン金本位制の停止を発表したとたん、ヨーロッパ諸国はドルの売買を停止した。自分の国を守るためには当然のことだ。なのに、日本だけは市場を閉鎖せずドルを買い支えようとした。自分の国よりアメリカのことを考えているとしか思えない。
「まったく当時の大蔵官僚は気が狂っているとしか思えんよ。アメリカはそれを恩に着るどころか当然のことと思った。アメリカは日本に無理な要求をする。それを当り前と思っている。要求されたら、事の大小にかかわらず、日本の政治家と官僚は目の色を変えて何とかしようとする。それが日米関係だ」

 これを読むと、アメリカのことは措くとしても、何やら今に到る日本の政治家や官僚の節操なき姿を見る思いだ。あるいは<日刊ゲンダイ>の記事を読んでいるような錯覚を受ける。(ちなみに私は、朝日や日経など役に立たない大新聞の購読を一切やめている。唯一愛読しているのが<日刊ゲンダイ>なのだが、いささか通俗的過ぎるだろうか?)
 沖縄普天間基地移転、TPP参加、米国産牛肉輸入、消費税増税、国際金融などの問題で、今のN内閣や官僚たちも、どうやら上に引用した幸田の悲憤慷慨どおりになっているような感がしてならない。
 さて、この作品完全なる万人向けエンターテインメントでありながら、随所に今の日本社会に潜む様々な問題の所在を嗅ぎ当てる著者の鋭い嗅覚が発揮されていて、内田樹のいう「作品としてのクオリティ」は兎も角、一読する価値はあるようだ。