月刊誌に見る日本のさまよえる論壇―「文藝春秋」「中央公論」「Voice」「正論」各10月号を読む

 9月10日、新所沢のパルコ内の”LIBLO”で、標記の4つの月刊誌を購入した。
 先ず読んだのは「文藝春秋」の巻頭に掲載された東大医学部教授で、東大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦氏の『除染せよ、一刻も早く』である。というよりも、これを読みたいためにこの雑誌を買ったのだ。
 7月27日の衆議院厚生労働委員会参考人として出席し、政府に一刻も早い対策を講じるよう強く求める児玉教授の姿はテレビなどでも紹介されたが、you tubeでその発言の全体を(と言っても15分ほどだが)改めて聴いて強い衝撃を受けた。
 氏は、放射性物質による内部被爆の恐ろしさを訴え、国会や政府による対策の犯罪的な遅さ・杜撰さを、また農林水産省を始めとする官庁の縦割り行政がもたらす非人間的な無能さを告発している。

 9月11日の日経・電子版によれば、9月10日現在で東日本大震災による死者・行方不明者は1万9867人、自宅に帰れない避難者はなお8万人超に上り、避難先は47都道府県に及ぶとのこと。信じがたい数字である。事故も史上最悪だが、事故後の国の対応も史上最も拙劣である。
 今般の鉢呂経産相の常人の理解を超える言動や、原発事故対策に全力を集中しなければならない大事な時期に、(ことの是非は別にして)武器輸出三原則の見直しなどをぶち上げて物議をかもしだす幼児のように無邪気な前原政調会長の姿を見ていると、政治に対する希望や関心が一挙に薄れていくのを感じる。税金を貪るだけ貪っているこの程度の政治家など、そもそも日本国にとって必要な存在なのだろうか?国費を蕩尽する多くの無能な連中を抱えて、日本に未来はあるのだろうか。日本の議会制民主主義はまさに死に瀕している。その責任は議会制民主主義の立役者であるはずの政治家と、人を見る目のなかったわれわれ国民自身にある。
 なお、児玉氏には小出裕章氏の二の舞にならないように祈る。小出氏のような良心的な学者でさえ、崇拝者・信者を作り過ぎれば、彼らの期待に沿わなければならないがために、発言のヴォルテージを常に高く保持し、その結果発言内容も徹底した一本道になってしまうという布教者特有の自縄自縛に陥ってしまう。あまり人気者になるのも考えものである。

 その点、児玉論文の次に掲載されている、東谷暁(さとし)氏の論文『検証・原発報道 誰がウソをついているか』は、原発事故が起きて以来、機を見るに敏な多くの反原発主義者の様々なコメントの矛盾点を厳しく衝いていて面白い。
 俎上に載る原発論客は、武田邦彦氏、大前研一氏、小出裕章氏、広瀬隆氏、飯田哲也氏、桜井淳氏、田原総一郎氏、池田信夫氏。そして、とりわけ筆鋒が鋭いのが古賀茂明氏、孫正義氏に対してである。また保守派で脱原発を主張する論者として西尾幹二氏も採り上げている。この論文を読むと、日本の論客はまるで変節漢ばかりのように思えて暗然となる。

中央公論では、佐藤優の新・帝国主義の時代>第31回『英国暴動が炙り出した恐怖』が刺激的で、いろいろと考えさせられる。
 佐藤氏はロンドンで警官によるジャマイカ系黒人の射殺から始まった暴動の詳細な経緯を分析的に叙述した後、ヨーロッパ諸国の移民政策について考察を加えるが、その際にエマニュエル・トッドの『移民の運命―同化か隔離か』(藤原書店)を考察の柱に据える。
 佐藤氏は論考の中で、ヨーロッパ諸国の移民政策を、同化型と他文化並存型の二つの類型に分けて考え、特に後者は、移民を内部に受け入れず、無意識のうちに隔離する傾向があり、エマニュエル・トッドはこのような無意識の要因を人類学的基層と呼ぶと述べる。そしてトッドはこの人類学的基層は、家族制度によって生み出されるという仮説を立てる。
 イングランドで機能している絶対核家族システムでは、自由とともに、人類と諸国民の間に差異があるという価値観が形成されるとする。
 この後、アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』(岩波書店)から<耐エントロピー>という概念を借りながら、欧米社会での黒人の存在論的意味づけからナチズム、黄禍論にまで議論が及ぶ。
 蛇足だが、佐藤氏の論考の後に、Voiceの「ニッポン潮流」を斬る!の山形浩生氏の『英国の暴動と民主主義の限界』を読むと、どうにもノーテンキに思えて違和感を覚える。

「Voice」には野田佳彦総理の『わが政治哲学』が掲載されているが、これは哲学などというものではなく、良く出来た中学生の作文の域を出ない底の浅い文章である。
“現在の日本では毎年、三万人以上の方が自ら命を断ち切っている。”という表現があるが日本語のニュアンスとしてはおかしい。“命を断ち切っている”はないだろう。“命を絶っている”が正しい。また自殺の原因として、“それぞれの方々の事情や、気持ちの問題もあるだろう。”という言い方には唖然とする。”事情”とか“気持ち”とかの平凡な語彙を用いるのではなく、他にもっと真相を衝いた表現が頭に浮かばなかったのだろうか。
 また、海洋資源について述べている部分で、“活用できる技術をどんどん開発していけば、日本の前途は洋々たるものである。”という部分も、論理にあまりに楽天的な飛躍が見られるし、”前途洋々”という表現も拙(つたな)過ぎる。
 さらに宇宙の可能性について述べたところで、“いままで予算を削り過ぎてきたが”などと平然とうそぶく。本当に反省しているのだろうか。
 行政のムダの削減については、“こちらが改革を進めようとしても、いたちごっこのように抜け目なく残されてしまうこともある。”と嘆いているが、これでは政治家が単なる間抜け揃いであることを告白しているだけに過ぎない。

 最大の問題点は、“国民にとって、あるいは官僚たちにとって、たとえ耳障りな議論だとしても、責任をもって断行し、これ以上の借金に歯止めをかける方向に流れを変えていく。それが、今の日本の政治家に求められる責務だ。”という部分である。
“責任を以て断行する“とは何のことか。これはこの直前にある”弛むことなく、改革に取り組み続“けるということであろう。それならば、なぜ政治家は対象外なのか。先ず政治家が身を切らなければならないが、この文章には国民に増税を理解してほしいという願望が性急に出過ぎていて、施政者の身を切るというる姿勢が全く見られない。官僚たちにも給料カットを受け入れよ、ということだろうが、どっこい、国民への増税という苛斂誅求は官僚の望むところ、悲願ですらある。
 国会議員の定数制限こそ真っ先に取り組むべき課題であるが、そんなことはおくびにも出さない厚顔さで、政治に絶望したくなる。
「Voice」では他に小幡績氏(慶大准教授)と岩井克人氏との対談中央銀行は通貨価値を守れるか』が興味深い。
 面白かったのは、岩井氏が“ある通貨が基軸通貨になるきっかけと、基軸通貨基軸通貨として流通させる仕組みとはまったく異なっている”という認識を示した上で、MIT(マサチューセッツ工科大学)のキンドルバーガーの解釈を引用して“大恐慌によってドルが基軸通貨になったのではなく、ドルが基軸通貨に早くならなかったから、大恐慌が起きた”と述べている点である。
 あるいは、政治のポピュリズムを批判し、“あのアメリカですら、世論は操作するものだったはずなのに、日本の民主党同様、世論に振り回されて受け身になっている。”と言い、 また、中央銀行が“いまはニーズに応えすぎて、もうマーケットに動かされている。”と現状を述べ、“通貨当局がやるべきは、市場に反して行動することです。”と断言する。
 もう一つ引用すれば、“岩井先生が長年主張されているように、政治と通貨では圧倒的に通貨の方が重要なのです。”という小幡氏の発言にもびっくりさせられた。
 この後の貨幣の本質についての二人の論議にも耳を傾けるに値する。

さて、保守派のオピニオンで埋め尽くされる「正論」だが、ここでは、巻頭の新連載の『根源へ』草舟立言 第1回死生観について>を読もうと思って購入した。筆者の執行草舟氏について全く予備知識はなく、ただタイトルにつられて買い求めたのである。
 読んで大いに違和感を覚えた。武士道的なスタイルの一見颯爽とした語り口は小気味よいが、歴史を自分の主張に都合よく一面的に解釈しているのが気になった。例えば、キリスト教とヨーロッパ中世に対する見方である。中世を持ちあげるための根拠としてアナール派歴史観を敷衍しているが、実証主義を否定し、心性史とか事象を超えた歴史の深層構造などという歴史の構造分析を持ち出すこの学派に今や大きな影響力はない。

 また、“中世というのは人間中心主義の新しい時代だった。それを支えたのがキリスト教です。”と述べているが、中世における人間とは誰のことを言っているのであろう。ユダヤ人や魔女は勿論人間には含まれないのであろう。森島恒雄氏によれば、魔女の歴史は古石器時代の壁画にその姿を現わしているが、“ともあれ、中世のキリスト教国は、さまざまな魔女迷信の吹きだまりであった。”と言っている。(「魔女狩り岩波新書)そして、異端撲滅にとりわけ積極的であった法王インノケンティウス三世(1198年即位)の登場する12世紀末から13世紀にかけてローマ・カソリック教会の魔女に対する対応が極めて非寛容的になり、異端者の拷問・火刑が通則になっていく。

 ヨーロッパ中世は西ローマ帝国の滅亡(476年)から東ローマ帝国滅亡(1453年)辺りまでを言う。しかし、魔女狩りは中世で区切りがついたのではなく“ヒューマニズム実証主義ルネサンス時代は、一方では残虐と迷信の時代であった。”(森島恒雄、前掲書)そして、ローマ・カソリック教会の異端審問の一部である“魔女裁判は、・・中世末期、ルネサンスの動きとともに始まり、1600年を中心とする一世紀間は、魔女狩りのピークであるとともに、ルネサンス運動のピークでもあった”。と述べる。
 ローマ・カソリックプロテスタントによる魔女狩りと反ユダヤは、人類史上決して消すことのできない大罪である。余談だが、昨年の10月に訪れたプラハヤン・フス銅像を観たが、彼も1415年に異端として処刑されている。

 ことほどさように、ある時代をことさら美化するのは歴史に対する正しい態度ではない。
 また、知覧で特攻に散った青年たちを評して“特攻に出る前の日の写真は、誰もがものすごくいい顔をしています。”という文章があるが、一読のけぞる思いであった。特攻に向かう若者たちが死を控えてあんなに素晴らしい顔をしているのは“あれは死に方が決まり、自分の死に価値ができたからなんです。”と言っているが、このようなことを平気で言う人間を私は決して許すことが出来ない。特攻で死に臨んだ若い人たちの内心の深刻な葛藤や、口に出すことさえできない<生きたい>と思う強い願いを思うと、簡単に死生観のみで語ることは出来ない。敗戦を目前にし、国家が存亡の危機に立っている当時の日本の状況下で、逃れられない運命に絡めとられた絶望を思うべきである。そこに使命感が存在したとしても、自分の人生に僅かでも意味を見出すために必死に自分に納得させようとした果てのことであったろう。死生観を美しく語るのに特攻を引き合いに出すのは止めて欲しい。

 三島由紀夫の死を美化し、昭和の死生観の典型として持ちあげているのには大いに引っかかった。自分に都合のいい後付けの解釈であろう。この筆者の物言いには、三島と同じ強いナルシスムを感じてしまう。
 死生観について考えるなら、隆慶一郎の『死ぬことと見つけたり』(新潮文庫)を読んだ方がよほどましである。ここには、死と背中合わせに生きる葉隠武士の死を賭けた戦い、日本の侍の死生観が見事に描かれ、隆氏の多くの小説の中では私の最も愛する作品である。