「観念的生活」中島義道著(文春文庫、11.5.10)に見る観念的死生観の虚実

中島義道先生のこの本で興味があるのは、飯の種である哲学論議そのものはなく、各章の本論への序奏になっている、あるいは一種の箸休めになっている著者の哲学的(?)私生活や、その折々に呟くようにこぼれ出てくる老年の感懐と死生観である。(以下、敬愛をこめて”先生”と呼ぶことにする)
 老年と言っても、この書を書いていた時期、先生はまだ還暦を過ぎたあたりで、私から見ればまだ若いとしか思えない。それなのに先生は、
「もうじき還暦だ。ということはいよいよ死ぬということだ」
と書く。しかしその舌の根もかわかぬ間に、
「・・・本当に死んだら困る。このまま死んでなるものかと思う。だが、やはり死ぬのだと思う。何が困るのか、はっきりしない。いや、何もかも困るのだ。ともかく、このまま死んでしまうのだったら、生まれてきた甲斐がない」
と愚痴り、到って煮え切らない。
 これがカントの研究家で天下に隠れなき大哲学者の披歴する感懐かとため息の出る反面、その馬鹿正直さと、それと裏腹となっている偽悪者ぶりが、何とはなしに好もしく思えてくるから不思議だ。私はもともと「人生を<半分>降りる」(ナカニシヤ出版、97.5.20)、「哲学者のいない国」(洋泉社、97.9.8)以来の中島義道先生ファンなのだ。先生の持論を何から何まで真に受けることはないが、中島先生は、まあ私にとって、生きにくいこの世の中における一服の安定剤のような存在なのである。先生の妙ちきりんな髭の生えた肖像を拝見すると、いかにも騙し屋然として怪しげではあるが、反面人を喰ったようなユーモラスな風情が漂っていて、さもありなんと妙に納得する次第。

 手元にある先生の著作を少し並べてみよう。

 先生の著作全般に通奏低音のように必ず鳴り響く言葉、
「もうすぐ死んでしまう」
そして大いにお節介な言葉、
「そして、あなたはまもなく死んでしまうのです」(「人生を<半分>降りる」の最終行)
は本音か、それともおまじないのたぐいか、ちょっと判別し難いところがある。
 新学期を迎える学生を眺めては、
「彼らはあと五十年以上もこの地上に生きるのだが、一体それに何の意味があるのだろう」
と、ことさらに醒めた感懐を披歴するが、これは先生一流のブラックジョークのたぐいであろう。人間も地球上の生物の一つの類に属するが、一体地球上の生態系を構成する生物に生きる意味など誰が求めよう。それこそ無意味である。そんなやくたいもないことは、前頭葉の著しく肥大した人類の、その中でも特に暇なご仁たち(例えば大学の哲学科の先生など)だけが考えていればいいのだ。
 似たような考えを持つ人物はいるもので、「週刊現代」11月5日号の大研究シリーズと銘打った<著名人10人が明かす 死ぬ気、まんまん!>のなかで、本当かどうか分からないが、ここ7〜8年ほど水虫の治療以外は一切、医師の診察も検診も受けていないという生物学者池田清彦氏の、
「だいたい60歳を過ぎて、それ以上長生きしても仕方がないと思う」
という言葉が紹介されている。どうも、中島先生と波長が合うようだ。悔しいことに、池田氏の著作の一部は私も愛読しているのだ。―例えば「他人と深く関わらずに生きるには」(新潮文庫、06.4)など。

 中島先生の「哲学の道場」(ちくま新書、98.6.20)を読むと、
「こうして哲学者であるからには「私が今生きており、まもなく死んでしまう」という単純なセンテンスから逃れることはできません。いかなる深刻な問題といかに真剣に格闘しようとも、このセンテンスに手を触れずにいるのでは哲学をしているのではない」
という文章にぶつかる。
 すると、「もうすぐ死んでしまう」という先生の口癖は、世の愚かで無自覚な私のような人間に対する警鐘であると同時に、いやそれ以上に、自らの真の哲学者としてのアイデンティティを絶えず確認している作業だと思えば、何やら納得がいく。
 このことは、本書の第15章「哲学という病」に縷々述べられている。この章は、先生は20歳のころ、死が永遠かつ完全な無だとすればそこには一滴の救いもなく、この人生には何の意味もなく、生きる目的も価値も全くないと直感した、ということをテーマに哲学することの根源的な意味に開眼(?)していく様子が書かれていて興味深い。

 この本は、「文学界」06年7月号〜07年9月号に初出、07年11月に単行本として刊行されものだそうだが、 文庫本の出版に当たって、<観念的生活、その後>という文章が付け加えられており、
「すでに未来が「無い」ことは揺るぎないものとして確信していたが、私は百五十億年に及ぶ「これまで」の客観的世界という厄介な亡霊と格闘していた」
と始まり、私のような平凡な頭脳の持ち主には理解が困難な理論を駆使した挙句、結論として、
「『観念的生活』執筆後、百五十億年に及ぶ過去がじつは完全に無いこと、それは人間が必死に「在る」と思い込もうとした大掛かりなトリックであることがほぼ明らかになって来た」
と断ずる。
 その衒学的論証は私には理解の及ばないものだが、論証の前段にある、
「よく目を凝らしてみれば・・・じつは世界が「無い」こと・・・が判明した」
といういい加減で情緒的な感懐は、理解しがたい論証の積み重ねよりもピンとくる。
 いかなる立派な哲学的屁理屈も記述されてこそ初めて実現する。つまり”記述するが勝ち”で、それは一種のイリュージョンでもある。中島先生の結論も、私には十分理解できないけれども、いかにも立派に記述されている。
 ついでながら、「過去」は私には強い実感としてある。過去に犯した犯罪でこれから刑罰を受ける、過去の借金に現在責められている、過去の行為で妊娠して未来に子供が生まれる、過去に話した言葉で今称賛を受ける・恨みを買う。過去は生きている人間にいつまでもまとわりついてくる。本当に過去が無くなるのは、死んでしまった時であろう。