「謀略法廷」上・下 ジョン・グリシャム著(白石朗訳、新潮文庫:H.21.7.1)―読者を愚弄するふざけた結末!

この小説の帯裏(上巻)には、<本書はアメリカ腐敗の現状を描き切った小説>という解説の杉江松恋氏の言葉が載っている。

 もっとも、アメリカの政・官・財の癒着と腐敗はつとに知られたことで目新しいことではない。遥か昔、アイゼンハワー大統領が辞任する際、この軍人出身の政治家が初めて軍産複合体への警告を行っている。(1961年1月17日)
 アイゼンハワーが警告したのは、軍産複合体(the military-industrial complex)が及ぼす広汎な影響力だ。

 The totale infuluence・・economic,Political,even spiritual・・is felt in every city,every Statehouse,every office of the Federal goverment.
(その全体的な影響はー経済的、政治的、精神的な面においてさえーあらゆる都市、あらゆる州議会議事堂、そして連邦政府のあらゆるオフィスで感じとられる。)

 この小説には軍は出てこない。登場するのは、産業廃棄物を平然と垂れ流してきた化学メーカーを中核とする巨大企業グループ、それらと癒着する腐敗した政治家(上院議員)、利益団体の影響を被りやすい偽善に満ちた裁判制度と判事たち、大企業の走狗となり果てた大法律事務所、他人の不幸と血の匂いにたかってくるハイエナのような没倫理の弁護士ども、怪しげな選挙ブローカー、など。これらが入り乱れ、最後は悪が栄えるという後味の悪い物語だ。すべては金を巡って動いている。金の奴隷になり下がったアメリカ社会の実態がよく分かる。この社会では正義や人の善意や細やかな情愛などは”糞喰らえ”ということだ。
 
 この気色の悪い結末こそが、今のアメリカの現実をより反映しているのかもしれない。しかし、これはエンターテインメント小説であり、ひと時の楽しみを求めてわれわれはいくばくかのお金を投じたのである。何もグリシャムにこのようなことを教えて貰う必要などない。大きなお世話である。

 この作品には、廃棄物の不法投棄による多くの被害者や彼らの味方である資金難にあえぐ若い弁護士夫婦、また公正な判断を下そうとする善意に満ちた現職の判事などの困難な戦いを徒労に終わらせ、悪辣な連中が潤沢な資金と途方もない悪だくみで最後は凱歌を挙げるという、読者を大きく裏切る、甚だアンフェアな結末が待っている。悪党どもの悪辣な謀略のこまごまとした描写に我慢して付き合うのも、こうした計略が最後は大きく破綻して、弱い立場の人々が勝利を収め、今までの労苦が報われるという、それなりに納得のいくストーリーを期待しているからだ。こんな消化不良の結末では、エンターテインメントを標榜する作品に必要不可欠なカタルシスがまったく得られず、読者を愚弄しているとしか思えない。こんな作品は読まなければよかった、時間のムダであった。

 最後に勝利者である巨大企業グループの総帥カール・トルドーの大型プレジャーボート進水式のパーティの場面がこれでもかと続く。しかし、敗者であるペイトン弁護士夫妻や原告であり夫と息子をトルドーの会社の産廃の不法投棄の結果殺されたジャネット・ベイカーのその後にも当然筆を及ぼすべきで、それをしないグリシャムは卑怯者である。

 例えばアガサ・クリスティーが、エルキュール・ポアロが犯罪の真犯人が分かりながら犯人の企みに負けて追求出来ず手をこまねいた結果、被害者が浮かばれないばかりか、関係者を更なる悲惨が襲うというような作品を書いたら、ファンはそれを許さず囂々の非難を浴びせるに違いないし、畢竟ミステリーとしても失敗作になるだろう。

 傑作「ザ・ファーム」の作者が一体どうしたことだろう。エンターテインメント作品ではなくて、もっと純文学的な作品にしたかったのだろうか。それは大いなる錯覚だ。グリシャムに対しては、われわれ読者は、面白くて痛快な作品を期待しているのだ。「ザ・ファーム」「依頼人」「ペリカン文書」「原告側弁護人」(映画のタイトルは”レインメーカー”)などはみなそうした意味では随分楽しませて貰った。みな映画化され、それぞれ複数回観ている。
 こうした妙な純文学志向は、ブライアン・フリーマントルにも見られる。新朝文庫に初登場した「別れを告げに来た男」以来のチャーリー・マフィン・シリーズの大ファンだが、「ディーケンの戦い」はいけない。グリシャムのこの作品と同じ極めて後味の悪い結末となっていて、読後に大きな徒労感に襲われること請合いだ。