わが愛読書(2)「斎藤茂吉歌集」(岩波文庫、S50.6.20)―茂吉の没年と同じ年齢となった今、「白き山」が心に沁み入る 

1昨年8月の約1ケ月の入院のとき、昨年9〜10月の10日ほどのドイツとチェコの旅行のとき、いずれも手元には必ず岩波文庫の「斎藤茂吉歌集」があった。もうすっかり古びて、頁も焼けて紙の縁が黄ばんでしまっているが、愛着があって買い替えることができないでいる。奥付を見ると、昭和50年6月20日の第19刷とある。

 茂吉の全作歌から1690首を選んでいて、編者は茂吉本人のほか、柴生田稔と佐藤佐太郎で、後者の二人はともに「アララギ」会員で茂吉に師事している。
 茂吉は歌人であるとともに精神科医で、東京大学医学部で精神医学を学んだ後、大学教室及び府立巣鴨病院に勤務、そして官立長崎医学専門学校勤務を経て、大正10年から13年までウィーン大学ミュンヘン大学に学ぶ。大正14年に帰国して前年に焼失した青山脳病院の復興につとめ、昭和2年には養父紀一の後を継いで院長となる。現在でもこの病院の流れを汲む病院が存在する。(余計なことだが、私の勤務している病院も同じ疾病を扱っている)

 昭和20年、太平洋戦争悪化を理由に院長職を辞し、4月に郷里の山形県上ノ山町金瓶に疎開、昭和21年に山形県大石田町に移る。「アララギ」派の歌人板垣家子夫(かねお)の世話で地元の富商二藤部(にとべ)兵右衛門家の最上川近くの離れを借り、「聴禽書屋」と名付けて帰京するまで住む。昭和22年帰京して世田谷区代田に居住、昭和25年、新宿区大京町に移住。昭和28年2月25日、心臓喘息にて死去。享年70歳9カ月であった。(年譜は岩波文庫解説、山形大教授山本陽史氏執筆の今年1月19日「読売新聞」の記事、Wikipediaなどを参照した)

「白き山」は、疎開先である郷里の山形県上ノ山町金瓶から同じ山形県大石田町に転住した戦後すぐの昭和21〜22年、茂吉の65〜66歳の作品である。
 岩波文庫版には「白き山」全850首のうち142首が収められている。「赤光」や「あらたま」のような力強い生命の奔流と茂吉という人間に生涯つきまとう孤独感の織り交ざった目覚ましさは少ないが、病臥後の意欲回復の中にも忍び入る拭いがたい老いの寂寥感が心に沁み入り、こうした境地は私の最も愛するところである。

 岩波文庫で柴生田稔(岡井隆の「アララギ」入会当初の師である)は、この歌集について次のように解説している。
 ―「大石田転住後間もなく重症の肋膜炎で病臥するが、ようやく癒えてからは、新たなる意欲を以て戦後の世界に立ち向い、「小園」におけるひたすらな傷心に代わって、改めて積極的な「工夫・変化」の努力が行われ、ここにまた強い心の波動を伝えた新しい境地を生みだしている」
 確かに「小園」に漂う寂寥と詠嘆の調子は、作歌が昭和18年〜21年の戦争末期から終戦を郷里の金瓶で迎えた時期のものであり、茂吉の気を萎えさせる時代の不安と老いの身に忍び寄る生の心細さが重なり合った結果であろう。
 歌集の名「白き山」の由来は茂吉自身、後記中で次のように述べている。「別にたいした意味はない。大石田を中心とする山々に雪つもり、白くていかにも美しいからである」

 いつのことか覚えないが、手元の岩波文庫の中の「白き山」に私が黄色くマーキングした歌がある。当時(30余年前?)特に心に残った歌だったのだろうか。それは下記の3首である。

  蔵王より離(さか)りてくれば平(たひ)らけき國の真中(もなか)に雪の降る見ゆ
  蛍火をひとつ見いでて目守(まも)りしがいざ帰りなむ老(おい)の臥処(ふしど)に
  いただきに黄金(こがね)のごとき光もちて鳥海の山ゆふぐれむとす

 ところで、この歌集で最も人口に膾炙した歌は、下記の最上川を詠んだ歌である。

  最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

 他にも心に残る歌は数多くあるが、そのうちいくつかを以下に書き写してみる。

  日をつぎて吹雪つのれば我が骨にわれの病はとほりてゆかむ
  彼岸(かのきし)に何をもとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は
  ながらへてあれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ
  終戦のち一年を過ぎ世をおそる生きながらへて死をもおそるる

 思えば私も今年で茂吉が没したと同じ年齢になったのだ。そのせいか、あるいは世の中が断末魔の状況を呈して悪くなる一方になっているせいか、今、歌にこめられた茂吉のしみじみとした抒情と生の嘆きが、わが心情にひたひたと沁み入るように寄り添ってくるのをのを感じるのだ。

 ふと、この歌集をめくっていたら「ともしび」昭和3年のところに下記のように地震を詠んだ歌があった。昭和三陸地震昭和8年に起きており、昭和3年に大きな地震があったという記録はないが、この歌に詠まれている地震は、震源地も近いようなので、昭和三陸地震の前触れででもあったのだろうか。

  けさ揺りし地震(なゐ)のみなもとは金華山のひむがし南の沖にありとふ

 茂吉の歌の中では、やはり「赤光」の<おひろ>と<死にたまふ母>の連作が力のみなぎった畢生の傑作で、愛する人や肉親への思い入れのただならぬ深さと日本短歌固有の抒情があいまって、一代の名吟となった。
 ほかには、「あらたま」の<あかあかと一本の道とほりたりたまきわる我が命なりけり>が、茂吉を代表する名歌で、そっと口にのぼせる度に新たな感動が呼び起こされてくる。

 西行(「山家集」)とともに斎藤茂吉の歌には、なぜか私たち日本人の心の琴線に触れるものがあって、しみじみとした気持ちにさせられる。古来より、この国土の自然の苛烈さ、移ろいの多様さによって醸成された繊細にして複雑な情緒や感覚、また転変極まりない人の運命の無常さと、そうした人間の作った社会のはかなさに対する、いわば諦念の美学といったものをを味わうことができるからであろうか。
 柴生田稔が「赤光」について記した以下の解説は、茂吉の全作品に通じる、いわば人間斎藤茂吉という創造する人格の根源に迫る見事な説明となっているので、最後にこれを挙げておきたい。
―「全体として、「赤光」には人間感情のなまなまとした現れがあり、生命感に満ちている。そこに短歌の世界の近代化が成就されているとともに、日本文藝に置いて真に「近代」の地に著いた姿を見出すことができる。そこには生を肯定し哀惜する積極的、健康的な思念が行きわたっているが、同時にその止みがたい生を遂げようとするものの悲哀、孤独の情が流れている。それはまた茂吉の文学における全生涯を通じての基調である」