「改訂版 小林秀雄の哲学」高橋昌一郎(朝日新書、'13.9.30)―宮本武蔵の”器用という事”について

本書は7章に分かれ、各章のはじめに、テーマ別に小林秀雄の著書から文章を原文で引用し、テーマにからめて自在に語るという体裁をとっている。
 これは面白いと思った箇所を一つ挙げると、第四章”戦争と無常『私の人生観』”の宮本武蔵五輪書』の”道の器用”について語った部分である。ここで小林は、文意の流れを敢えて曲げて読んで見せるが、その曲げ具合が面白いし有益でもある。


五輪書』の地の巻の最初の方に、三十歳を越えてこれまでの勝ちを振返ってみるに「兵法至極にして勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて天理を離れざる故か。」とあるが、「おのづから器用ありて」について、岩波文庫の渡辺一郎の校注では”生まれつき武芸の才能にめぐまれて”とあり、ちくま学芸文庫の佐藤正英の校注でも”生まれつき兵法の技に巧であって”とあるが、小林は”器用”という言葉だけを切り離して「器用は小手先の器用である。」「兵法は、観念のうちにはない。有効な行為の中にある」と解釈、敢えて”おのづからと”天理”の部分を素通りして説明している。そのことによって、この小林秀雄流の読み方が私たちにより有用になってくるのだ。


 高橋はこの小林の解釈に関し「小林は、武蔵を「実用主義というものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人」とみなし、彼の「思想の真髄」が「勝つという事」と「器用という事」であったことを挙げる」と小林自身の文章によって反芻した後、「これが<実践の論理>を何よりも重視する小林の本音であることは明らかである」と、やはり精神主義を排する考えを強調している。さらに、『私の人生観』にある”如来の不記”についての文章を引用して、不記すなわち形而上学の不可能性を指摘し、ここでも優先されるのは”行う事”であり、必要とされるのは”精神論”ではなく”器用という事”である、ということに論を帰着させる。


 ところで、現代の日本人の実践(行動)力の劣化に関する嘆きが、大前研一の著書に見られる。(以下は『知の衰退からいかに脱出するか?』光文社、から)
<考えはするが、なぜか行動には移さない>の項目で、
「いまの日本人はとにかく行動をしない。「羹懲りて膾を吹く」状態がいまだに続いていると思うしかない。
 頭の中で考えるぐらいまではやっているかもしれないが、それがアクションにまでつながるかというと、どうしてもできないのではないだろうか?ソフトバンク孫正義氏みたいに、すぐに行動に移せる人間が極端に少ない。孫正義氏は「失敗しても生まれたときの状態に戻るだけだ」と、どんな場合でもすぐ行動に移している。私の世代も考えたらすぐ行動する。戦後の貧しい時代を経てきているから、それしかないのである。」

 現代日本最大の実践家である孫正義の言動には重みがある。
 ちなみに、悪党の世界でも「手のすることを、目よ、見るな。だが、やるのだ。」(『マクベス』)という風に、同様の原理が動いている。


 大前の言葉は”すぐに行動に移さない”という現代日本社会の病質を言い当てている。日本の(会社、官庁、病院などの)組織でもしばしば同様の傾向が見られる。とにかく、会議だ検討だ、みなで議論してみる、といった遅疑逡巡がはびこる。これを穿ってみれば、みなが無意識のうちに責任回避をはかっているという図柄が見えてくる。
 事に臨んでの”即断、即決、即実行”に関しては、昔の日本人のリーダーはとにかく優れていた。織田信長の越前朝倉攻めのさい浅井の裏切りを知ったときの取って返しの素早さ、毛利攻めの最中に豊臣秀吉本能寺の変を知った時の中国からの神速な大返し、など枚挙にいとまがない。
 当時の社会のリーダーであった武士は、行動に失敗すれば当然死ぬことになるし、たとえ生き延びたとしても、生きて恥辱にまみれるよりは、むしろ躊躇なく自死を選んだ。彼らの実践(行動)はまさしく命懸けのものだったのである。

 
 本書はなかなか良くまとめられていて、全体の構成のアイデアも秀逸である。この本を読む最大の効用は、何といっても小林秀雄を直接読みたくなることであり、私もそうすることにしよう。

「確率論と私」伊藤清著(岩波書店、'10.9.14)―

前に述べたように、藤原敬之の著書で、伊藤清教授の存在を教えて貰った。このような偉大な学者を今まで知らなかったことを恥じるしかない。数学者で知っている名前は、高木貞冶、岡潔彌永昌吉小平邦彦、遠山啓、吉田洋一、矢野健太郎の各氏くらいであった。


 さて、伊藤教授の著書を読もうと考えても、数式に関しては目に一丁字もない私では、専門的な学術書を読むことは不可能である。しかし、前回の『日本人はなぜ株で損をするのか』で伊藤教授に標題のエッセイがあることを知り、早速読んでみたのだが、数式部分(あまり多くはなかったが)を飛ばして読んでもとにかく面白くてたまらない本であった。
 一読して強く感じたのは、やはり理系の大家は物事を曖昧にすることを許さないのだ、ということである。これに関連して思い出すのは、ニコラス・タレブが『まぐれ』の中の「文系のインテリは頭の中がぼんやりしているので、でたらめにだまされてしまう」(邦訳98頁)という言葉である。
(理系でも、最近のSTAP細胞をめぐる混乱のように、がっかりするような出来事が起こることもある・・・)


 本書の随所に伊藤教授の数学を学び始めた頃の話や他にも生涯のエピソードが散りばめられていて興味深いが、そこで感じたのは、理系でも伊藤教授のような一頭地を抜くような大人物は、その生き方からしてまことに直線的かつ明快で、もやもやと霧の立ちこめたような曖昧模糊としたところがない。
 汚濁した霧の中を、彷徨い迷いつつ行方も分からないまま人生を歩んできた私のような救い難い人間にとって、先生のような生き方は真にまばゆくて仕方がないのである。

「3日食べなきゃ、7割治る!」船瀬俊介(三五館、'14.1.6)―空腹の薦め、食うな・動くな・寝てろ、は正しいか?

とりわけ目新しいことが書いてある訳ではない。ファスティング(断食)こそ万病を治す妙法である」という(著者の言う)ヨガの教えが基本となっている。世に多くある少食の薦めの一つであり、免疫機能が高まる結果身体の不調が7割治る、というのだ。


 本書で紹介されている細かいデータ(例えば米コーネル大学、C.Mマッケイ教授の研究など)は検証しようがないので本当かどうかは分からないが、ここに書かれた食に対する思想(?)は、”そうなのか”と思わせる程度の説得力はある。
 著者の中に、近代栄養学とそのカロリー理論、その結果引き起こされる病の治療をする病院と医者に対する抜きがたい不信がある。 
 私は長年朝食を食べないで過ごしてきたが、最近きちんと朝食を食べるようになって、常に満腹感があって、夕食などを美味しく食べられなくなってしまった。本書を読んで、また朝食を抜く生活にしてみたが、確かにどこか快適な感じがする。朝から頭が良く働くようになった気がするし、気力も漲るようだ。(まあ、気のせいかもしれない?)


 ところが、2月15日の大雪で、職場へ往復で合計2時間以上を掛けて雪道を歩いたが、かなりの重労働で、途中めまいすら感じた。歩いた後も疲労感が強く、もしかして朝食抜きの生活が、血糖値の低下など、何らかの影響を及ぼしたのではないかと疑い、迷いが出てきた。
 従来より、朝食を取るべきか抜くべきかについては賛否両論がかまびすしく、今に至るも決着がついていない。まあ、折角朝食抜きを始めたのだから、しばらく続けてみることにする。

「日本人はなぜ株で損をするのか?」藤原敬之著(文春新書、'11.12.20)―株で儲けるためではなく、投資というものの本質について考える本だ

本書を読むに際しては、ナシーム・ニコラス・タレブ『まぐれ』ダイヤモンド社)に次のように書かれているのを心に留めておきたい。
「運を実力と取り違える傾向がとても強い―そのうえ如実に表れている―世界が一つある。それは市場の世界だ。」
 そして、誤解一覧の中で<市場でのパフォーマンス>として、本当は左なのに、右と勘違いする状況(悲喜劇)を示している。
 運がいいだけのバカ → 能力のある投資家 
  生存バイアス     → 市場に打ち克つ
(生存バイアス:脱落あるいは淘汰されてしまったサンプルが存在することを忘れてしまい、一部の「成功者」のサンプルのみに着目して間違った判断をしてしまうというバイアス。)


 本書は平成23年5月20日京都大学で行った『株式運用。アクティブ・ファンド・マネージメントとは何か』と題した講義を再現したものだそうだ。社会経験はないが偏差値は高い学生相手には、著者の波乱に満ちた体験談と、そうした多くの経験と永年の研鑽を基にした投資術(理論)は、さぞや威嚇的とも言える効果はあっただろうと推察される。


 第一章の<ファンド・マネージャーとは何か?>は、著者のファンド・マネージャーとして成功を勝ち得ていく経歴、つまり著者のプロフィールとでもいう部分だ。


 第二章<株式運用の基本とは?そして独自の運用とは?>では、株式運用の基本、パッシブ運用とアクテイブ運用が語られる。要するに前者はインデックス・ファンドの購入のことであり、後者は株価指数を上回る結果を目指すというのだが、これにはクオンツ(数理的なアプローチを使って作成されたプログラムに任せるるもの)と、人間が判断を下してポートフォリオを作って運用するものがある。
 人間の判断として、さらにトップ・ダウンとボトム・アップに分けられるという。運用の目的が純粋に「収益をあげることだ」とすると、アプローチは本来トップ・ダウンになるはずだが、しかし、株式運用の世界ではボトム・アップのあり方が主流になっていると著者は言う。このボトム・アップのあり方は、さらにまたバリュー株運用とグロース株運用に分けられるらしい。
 ここまで読んでみて、話の筋道が隘路にはまり込んで行くだけで、ほとんど何も株運用の秘策は語られていないことに気がつく。単に株式投資の最大公約数的な手法が述べられているだけで、どうやったら株式投資で勝つのかについては何も示されていない。
 それももっともだ。そもそも株式運用で勝つ方法などはないからなのだ。株も競馬と一緒で、いわば運任せのギャンブルで、勝つための理論など立てようがない。


 著者もそんなことは百も承知で、「絶対的手法は存在しない」として次のように述べる。
「人間であろうとコンピューターであろうと、どのような運用手法であろうと、常に良い結果が出せる(常に市場を上回る銘柄の選択が出来る)絶対的なものはこの世に存在しないことは申し上げておきます。ある局面では良い結果を出せた運用方手法も別の局面では最悪の結果を招くのがこの世の常です。」


 それでも著者は、一般的に運用会社が銘柄選定の割高割安の目安として使われる株式投資指標として、PER,PBR,P/CFRを紹介する。著者はこの指標について一定の有効性を認めている。
 次に、著者が独自にあみ出したアプローチのあり方が説明される。(100%株で運用するという制約を設けてのこと。)
 まず著者が実際に農中で行った典型的で教科書的なトップ・ダウンでの運用方法の説明を行ってから、著者独自のトップ・ダウンが述べられる。
 著者の投資コンセプトはあくまで企業での成功体験に基づいている。著者独自のアプローチは、クレディ・スイスにおける「メガトレンド」をコンセプトとするファンドから始ったとのこと。一言で言えば、「フェーズで考える独自の日本株の見方」ということだが、技術的要素が多く、要約するのは難しい。しかし参考になる視点がいくつか提供されているので、直接本書に当たられることを薦めたい。
 
 次に、クレディ・スイスに入る前に勤めた野村投資顧問でのコンペでの連戦連敗の経験から、しっかりした基礎を作るために行った本格的アカデミズムへのアプローチ、具体的には読書案内に話の重心が移っていく。
 実は、この部分が一番面白く、また大いに啓発されることとなった。
 伊藤清アダム・スミスケインズシュンペーター岩井克人青木昌彦などの科学者・経済学者から(シュンペーターは第四章<株価とは何か?>でも詳しく語られる。)、日本人とは何かを考える上で、和辻哲郎小林秀雄折口信夫網野善彦丸山真男埴谷雄高など(第六章<日本人とは何か?>へと続いていく。
 特に小林秀雄については、本書に刺激されて、高橋昌一郎小林秀雄の哲学』朝日新書)を買って読んで感銘し、さらには小林を今まであまり読んでいなかったことを悔いて、今、新潮社の小林秀雄全作品』に取りかかっているところだ。
 また本書で紹介されている、伊藤清『確率論と私』岩波書店)というエッセイ集を読んでみたが、まさに一読巻を措く能わざる面白さだった。伊藤清という偉大な数学者の存在を教えてくれた著者に感謝したい。この本については稿をあらためて考えてみたい。


 第三章<情報をどう処理すべきか?>と第四章<株価とは何か?>では、投資の本質に迫る本格的な部分で、本書のタイトルから連想されるお手軽な投資術などとは一線を画する、洞察力に富んだ議論が展開される。詳述は避けるが、最も印象的だったのは、第四章の最後の方で、経済や市場の本質について「二項対立」という命題をしっかりと認識の中心におき、常に相反する要素を考えることで不条理への対応を可能にし、何もかもを割り切ることは我々が生きていく世界では不可能だと述べている部分である。
 そして結論として、株価にフェア・バリュー(適正価格)は存在せず、過大評価と過小評価のみ、と言い切っている。これが、株式運用における視点・思考を動態的(ダイナミック)なものに措くための重要な契機であるという。けだし卓見である。 


 第五章<日本人はなぜ投資が下手か?>で著者は、そもそも日本人が投資に向いていない理由を、一神教の環境で育った欧米人の”将来(=理想)ビジョン”の重視に対して、日本人は”今”に最高の価値を置くという価値観の違いを挙げる。欧米人であるユダヤ系と、(欧米ではないが)華僑の人々が最も投資術に長じていることは周知の事実だ。これには風土の違いもあるだろう。ユダヤも華僑(中国人)も故国の王朝の盛衰と興亡により故国を離れ、しかも一か所に定住せず世界中に散らばって生きている。彼らは、先祖代々一つ所に定住し、水と空気はタダと思って生活している日本人とは投資観はおろか人生観も大きく異なるのは当然だ。
 そこで、一体日本人とは何かを知ることがすべての基礎になくてはならないと著者は考えを及ぼす。そうした認識が前述の日本の思想家たちへのアプローチに繋がっていくのはごく自然な流れだろう。


 第六章<日本人とは何か?>では、著者は外国人とビジネスとの真剣勝負をしていく中で、日本人の特性について考えざるを得なくなったと言う。その上で、先述した日本の思想家の著述を読み込みながら考え、「投資が支配する世界の政治・経済・社会」という巨視的な視点で投資の本質に迫ろうとする。その姿勢は多くの示唆を与えてくれるものだ。
 

「「量子論」を楽しむ本」佐藤勝彦監修(PHP文庫、'00.4.17)―よく分らないが、知的興奮を誘う

本書の紹介によれば、監修者の佐藤勝彦教授は(本書の執筆当時)東大教授にして宇宙論研究を世界的にリードする存在。コペンハーゲンニールス・ボーア研究所で客員教授を務めた経験を持つ。従来より、一般読者向けに最新物理学の啓蒙的な書物を書くことにおいては定評があり、量子論を分りやすく説明する本の著者(本書では監修者)としては最適な人選と言えるだろう。
 私の本棚には、同じ佐藤教授の『相対性理論を楽しむ本』(PHP文庫)と『アインシュタイン宇宙論』(角川文庫)が並んでいる。佐藤教授は、私のような科学オンチながら最新の物理学に関心のある者にとって、都筑卓司(故人)とともにまことに有難い存在である。(都筑教授の著書では『不確定性原理』(講談社ブルーバックス:'02.9.20)が、不確定性原理を通じて、量子力学についてやさしく解説した名著であると思う。)

 本書は、監修者が<はじめに>で量子論とはいったいどんなものであるのかを、図やイラストを用いてやさしく解説し、量子論に興味はもってはいるが、専門書など読むゆとりのない皆さんに、量子論を直感的にでも理解していただきたいという趣旨で書かれたものである。」と言っている。読了してみて漠然とではあるが量子論の核心のイメージに直感的に触れ得たような気がするのは、群盲象を撫でるの類だろうか。

 本書の解説の流れは、(少々粗っぽいが)ざっと記すと下記のようになる。
 先ず第1章「量子の誕生」(サブタイトルが、量子論前夜)では、光の謎に迫る研究から量子が生れたとして、マックス・プランク(黒体放射のスペクトルの分布線の研究から導き出したエネルギー量子仮説)とアルバート・アインシュタイン(光量子仮説)の理論が語られる。これらの研究の結果は、光は、粒でもあり波でもあるという二重性を示すことが分り、古典物理学では全く説明できない物理学上の歴史的な大発見となる。
 また、プランクのエネルギー量子仮説は、物理学の中に初めて、光のエネルギーは不連続に、「とびとび」に変化するものという考えを持ち込んだ、(自然現象の中にある量が不連続な変化をすることはありえないとする)従来の物理学にはない画期的なものであった。
 第2章「原子の中の世界へ」(サブタイトルが、前期量子論)で、量子論を提唱したニールス・ボーアの功績について述べられる。先ず、原子の構造について、原子がこれ以上分割できないものではなく、内部にさらに小さな構造を持つことが、1897年にトムソンが電子を発見したことで分る。次に原子の内部構造について、トムソンの原子模型からラザフォードの原子模型に発展していく経緯が述べられる。ラザフォードの実験で、プラスの電気を帯びた原子核の周囲を、マイナスの電気を帯びた複数の電子が回転しているという構造が明らかになるが、しかし、この模型にも重大な欠陥があり、この問題を27歳の若きニールス・ボーアが、「パルマー系列」の関係式に触発されて、<量子条件>や<定常状態><振動数条件>という古典物理学の常識から外れる仮定のもとに「ボーアの原子模型」を発表して解決する。これが1913年のことであった。
 実は、<量子条件>などの大胆な仮定を根拠なく持ち出したボーアの理論は欠陥だらけであったが、彼の功績は、従来の古典物理学と真の量子物理学をつなぐ橋渡しとして画期的であり、前期量子論として量子論の建設における貢献度は間違いなくナンバーワであったと本書では記されている。
 そして下記の各章が続く。
第3章「見ようとすると見えない波」(サブタイトルが、量子論の完成)
第4章「自然の本当の姿を求めて」(サブタイトルが、量子論の本質に迫る)
第5章「枝分かれしていく世界」 (サブタイトルが、解釈問題を追う)
第6章「究極の理論へ向けて」(サブタイトルが、量子論が切り開く世界)
 これらを要約するのは正直手に余るので、核心となる言葉だけ列挙してみよう。
波動関数の確率解釈><波の収縮><シュレーディンガー方程式><コペンハーゲン解釈(以上、第3章)、<電子のダブルスリット実験><不確定性原理(以上、第4章)、シュレーディンガーの猫><多世界解釈(以上、第5章)、<パウリの原理><反電子><量子宇宙論(以上、第6章)

 以前に、グレッグ・イーガンの『宇宙消失』山岸真訳(創元SF文庫、'99.8.27)を買い置いていたが、どうも量子論の知識が必要だなと思っていたところ、2014年版の「このミス」第1位になり、昨年暮れに購入した法月倫太郎の『ノックス・マシン』(角川書店)の冒頭の作品(「ノックス・マシン」)を読むと、何と量子論の用語がぞろぞろ出てくるではないか。<コペンハーゲン解釈><多世界解釈><<波動関数の収縮><シュレディンガーの猫>など。これはどうしても量子論の基礎を押さえておく必要があると思い、読みかけのまま本棚に眠っていた本書を読むことになった次第。
(『ノックス・マシン』全体については、稿を改めて感想を述べてみたい。) 

 本書は、よくは分らないながらも最後まで読み続けさせる魅力を持っている。佐藤教授が量子論の未知の世界を、初歩的な読者にも分りやすく解説していることとともに、量子論が内包する驚異の物理法則が知的興奮を呼ぶからであろう。

 例えば、ヒュー・エベレットによる多世界解釈パラレルワールド論の考え方には驚いた。荒唐無稽とも思える多世界解釈によれば、<シュレーディンガーの猫>の問題が矛盾なく説明できるというのも面白い。

 また、何といっても量子論波動関数の確率解釈が指し示す、結末は確率的にしか決定されないという世界観に非常に魅かれる。
 ヘブライ民族の一神教の宗教から始まる目的論的世界観・歴史観こそが人類史の諸悪の根源と考えると、確率論的な捉え方にある種の救済を感じるのである。
 目的論的世界観・歴史観は、ユダヤ教キリスト教、カントとヘーゲルマルクスと連綿として続いている。(フランシス・フクヤマもその延長に連なるだろう。)
 これらはすべからく進歩史観を内包した決定論に基づいているが、あるものは過去に人類に様々な災厄をもたらしてきた。壮大にして空虚、そして残酷、人類史のナイトメア。

 目的論的歴史観に関連しては、苫野一徳Blogがブルクハルトの『歴史的考察』について、ブルクハルトが「当時隆盛を極めていたヘーゲル歴史観を批判し、徹底した実証主義の精神によって歴史を見つめた。」と紹介しているのを見つけた。
 あらためてブルクハルトのこの本(左写真)をめくってみると、「世界史は世界精神の理性的で必然的な歩みであったということこそ世界史の成果でなければならない。」(『歴史哲学講義』序論)というヘーゲルの文章を引用してヘーゲル歴史観を批判し、「さらに我々は一切の体系的なものを断念する。われわれは「世界史的理念」を求めるのではなく、知覚されたもので足れりとするのであり、また、歴史を横切る横断面を示すが、それもできるだけ沢山の方角からそれを示そうとする。なによりもわれわれは歴史哲学を講じようとするものではない。」と歴史研究の心構えを述べている。
 参考までに、下記に苫野のこのBlogのリンクを張っておく。
ブルクハルト『世界史的考察』
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久生十蘭「顎十郎捕物帳」を電子書籍(青空文庫)で読む

この作品は過去に、創元推理文庫の「日本探偵小説全集8」で2回読んだ。それからしばらく経つが、ふと思い立って、今回は手に入れたばかりのiPad mini(リテーナ・ディスプレイ)に青空文庫リーダーをダウンロードして読み始めたが、面白さのあまり一気呵成に読み終えた。捕物帳では、やはり岡本綺堂の「半七捕物帳」と並ぶ優れた出来で、他の捕物帳とは一線を画す作品といえよう。(左は「日本探偵小説全集8」)

 全部で24篇、どの作品も謎に富み、気の利いたひねりがあって興趣は尽きない。中には解決不可能に思えるようなものもあるが(例えば『両国の大鯨』)、最後に見事一刀両断のもとにきっちり解決して見せる。顎十郎の頭脳の冴えはまことに鮮やかという外はない。それぞれに、卓抜なアイデアが盛り込まれており、読んでいて倦むことがない。想像力の欠如した並み居る私小説作家が盤踞する日本の文壇の中では、久生十蘭こそ、日本人離れした、一頭地を抜く稀代のストーリーテラーである。

 登場人物の性格描写も巧みで、叔父の森川庄兵衛や南番所の並同心藤波友衛など、肩肘を張った人物をのらりくらりといなす顎十郎の人を喰ったやり口がまことに楽しい。

 ただ、謎が解決したところで不意に作品が投げ出され、解決後の始末がほとんど書かれていない。この辺はやや物足りないが、作者は謎解きを果したところで、急に作品に興味を失ってしまうようだ。

 文章はまことに絢爛、登場人物たちの会話が、ある時はたたみ込むように、またある時は軽妙洒脱に、そして落語名人あるいは歌舞伎名人を思わせる巧みな呼吸術で頁に踊る。

 ただ僅か24作品しかなく、もっと読みたいと願っていたら、何と都筑道夫が「新顎十郎捕物帳」を書いているではないか。嬉しいことにこれも電子書籍講談社電子文庫)で読める。(こちらは無料とはいかないが。)登場人物も、阿古十郎(顎十郎)は無論のこと、ひょろ松、森川庄兵衛、藤波友衛、また大盗の伏鐘の重三郎までもが登場する。随喜の涙が溢れそうになる。

「異邦人」アルベール・カミュ、窪田啓作訳(新潮文庫、S.29.9.30)

この著名な作品を初めて読んだのは、多分大学生のころであったろう。それ以来手にしたのは実に久しぶりのことだ。主人公のムルソーが殺人の動機を「太陽のせいだ」と言ったところ以外、細部は殆ど忘れている。

 先ず一読した率直な感想は、ここに描かれたムルソーのような人間像が担っている精神の在り方は、時代の経過の中で概ね咀嚼されてし尽くされた、いわば風化した類型的人間像であるということだ。これらの思想(?)は思想としてさえ、すでに二十世紀で終わっている。

 
 ここで言う精神の在り方とは、キリスト教を支配的な宗教に戴くローマ帝国の末裔国家としての欧州世界にすむ人間の精神世界のことである。
 ムルソーのような人間のタイプに対し、欧州人は「不条理」というもっともらしい哲学的な味付けをするが、要は一神教特有の目的論的世界観の否定、もっと端的に言えばヘーゲル哲学へのアンチテーゼに他ならない。
 敢えて言えば、ムルソーのAppearanceは、ヘーゲルの有名なテーゼ、
「理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。」
(『法の哲学』序論)
と対極的な立場を体現していると考えられる。
ヘーゲルはこのようなことも言っている。
「世界史が理性的にすすむこと、世界史が世界精神の理性的かつ必然的なあゆみである・・・。」
「自由とは、自分みずからを目的としてそれを実現するものであり、精神の唯一の目的なのです。
 この究極目的に向かって世界史は仕上げられていく・・・。この究極目的は、神が世界とのかかわりのなかで意思するもの・・・。」
ヘーゲル『歴史哲学講義』序論、長谷川宏訳:岩波文庫

 この作品で、フランスの植民地アルジェリアという本来ムスリム国家に住む欧州人のムルソーが主人公というのは興味深い設定である。

 だが、こうした感懐を抱くのも、『異邦人』の思想的・哲学的意味について従来散々語り尽くされた諸々(もろもろ)が先入観として刷り込まれているためかもしれない。
 あらためて、予断を排し一個の小説として虚心に読んでみると、僅か27歳の作家が書いたとは思えぬ見事な作品で、簡潔にして確かなイメージを喚起する文章、登場人物のキャラクターや様々な状況場面の的確な描き分け、そして構成の巧みさなど、まさに傑作という名にふさわしい。繰り返して読んでみて、面白さは全く減じないどころか、新たな発見さえある。

 この小説はムルソーの一人称で書かれているが、これは小説作法上ただムルソーの目を借りているだけで、彼の心理の奥底までを描こうとしたものではない。ムルソーはまるで他人事のように自己や時々の状況を語る。
 彼の無関心な性格を描くために、以下のような表現が頻出する。
「別に話したくもなかったから、・・・」
「私は、それはどっちでもいいことだが、・・・」
「それには何の意味もないが、・・・」
「そうしたものは、いっさい、実際無意味だということを、・・・」
 
 殊更ムルソーの性格を際立たせるためのこのような表現は、やや作為的に過ぎるように思える。

 この作品で素晴らしいのは、第1章の終り、ムルソーがアラビア人をピストルで撃つ場面だ。焼けつくような光を放つ太陽から逃れられず、「空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた」苛酷な状況下で錯乱に陥り、身動きしない身体になお4発撃ち込む彼の衝動的な行動に、ありうることとして読者を感情移入させてしまうカミュの文章の力技にはただ感嘆するだけだ。
 この行為の意味や動機を理性的に分析・説明しようとしても無駄であろう。だが、理性と明晰をモットーとする裁判では残忍で不可解な行動としか映らないのは当然だ。

 
 しかし人がみな、ムルソーのように社会の名目的な決まりごと(社会慣習、宗教道徳、理性的であることなど)を無意味として、自分の感性のなすがまま無関心に生きていけば、人間社会は混沌の中に落ち込むだろう。こうした一種の没倫理の本性は決して美しいものだけではない。底流では、嫉妬、情欲、エゴ、自惚れ、残忍性、裏切り、他人の不幸を喜ぶ心根などがタテにヨコに織りなしている。これらを人間という不完全な生きものに開放してしまうくらい危険なことはない。人間は、感情を制御できない未熟な生きもので、自分自身を正しく評価することさえできないのだ。
 このように、ムルソーの本性には社会や人間に関わる事象への著しい無関心が潜んでいるが、ここから疑われるのは彼の病的側面だ。(例えば「離人症性障害」など。)

 カミュの言う「不条理」についてのまとまった文章が『シーシュポスの神話』(新潮文庫、S.44.7.15)である。サルトルをして「『異邦人』の哲学的翻訳」と言わしめた哲学的エッセイだ。(『異邦人』解説より)
 この書は、極めつけの美文を駆使して、青春特有の悲憤慷慨調かつ悲痛な面持ちでで、不条理をめぐるあれこれを綴ったカミュ渾身のエッセイである。
 本書は冒頭に、「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学上の根本問題に応えることなのである。」という文章を置く。

 本書でも少しだけ引用されているショウペンハウエルは、その著書の中で面白いことを言っている。「私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信奉者だけである。」という指摘だが、このユダヤ系の宗教には、勿論キリスト教も含まれる。(『付録と補遺』から自殺に関する論考5篇を収めた『自殺について』斎藤信治訳(岩波文庫、'52.10.15))

 次に「人生が生きるに値するか否か」という問いかけだが、生物としての人類には、種族保存本能がDNAに組み込まれているので、このような設問をすること自体にあまり効用はないだろう。

 
 そもそも「不条理」の意味合いについてカミュは以下のように述べる。
「不条理という言葉にあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が烈しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者に属する。いまのところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである。」
 これがカミュの不条理の種明かしなのだろうが、やや観念をもてあそび過ぎている嫌いはある。前述したように、ムルソーの本性は世界との関わり方についての無関心な態度、即ちニヒリズムである。

 まあ、この世の本質が不条理であることは、古代より当たり前のことで、ソポクレスか十八史略でも読めばすぐ分ることだ。
 今は、不条理などという曖昧な概念より、ニコラス・タレブが指摘しているとおり、懐疑主義を応用した「確率」という考え方が、デタラメで不確実な(偶然に左右される)世界を把握するのに役立つに違いない。(ニコラス・タレブ『まぐれ』望月衛訳:ダイヤモンド社
 そしてタレブはこの本で、人間の頭は確率を扱える仕組みにはなっていない、と繰り返し述べている。

 なお、サルトルの「『異邦人』解説」とモーリス・ブランショの「異邦人の小説」を読んでみたが、時代を閲したことで、すでに歴史の遺物となっているように思える。それにしてもサルトルの解説の何とも懇切親切なことに感嘆する。