「改訂版 小林秀雄の哲学」高橋昌一郎(朝日新書、'13.9.30)―宮本武蔵の”器用という事”について

本書は7章に分かれ、各章のはじめに、テーマ別に小林秀雄の著書から文章を原文で引用し、テーマにからめて自在に語るという体裁をとっている。
 これは面白いと思った箇所を一つ挙げると、第四章”戦争と無常『私の人生観』”の宮本武蔵五輪書』の”道の器用”について語った部分である。ここで小林は、文意の流れを敢えて曲げて読んで見せるが、その曲げ具合が面白いし有益でもある。


五輪書』の地の巻の最初の方に、三十歳を越えてこれまでの勝ちを振返ってみるに「兵法至極にして勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて天理を離れざる故か。」とあるが、「おのづから器用ありて」について、岩波文庫の渡辺一郎の校注では”生まれつき武芸の才能にめぐまれて”とあり、ちくま学芸文庫の佐藤正英の校注でも”生まれつき兵法の技に巧であって”とあるが、小林は”器用”という言葉だけを切り離して「器用は小手先の器用である。」「兵法は、観念のうちにはない。有効な行為の中にある」と解釈、敢えて”おのづからと”天理”の部分を素通りして説明している。そのことによって、この小林秀雄流の読み方が私たちにより有用になってくるのだ。


 高橋はこの小林の解釈に関し「小林は、武蔵を「実用主義というものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人」とみなし、彼の「思想の真髄」が「勝つという事」と「器用という事」であったことを挙げる」と小林自身の文章によって反芻した後、「これが<実践の論理>を何よりも重視する小林の本音であることは明らかである」と、やはり精神主義を排する考えを強調している。さらに、『私の人生観』にある”如来の不記”についての文章を引用して、不記すなわち形而上学の不可能性を指摘し、ここでも優先されるのは”行う事”であり、必要とされるのは”精神論”ではなく”器用という事”である、ということに論を帰着させる。


 ところで、現代の日本人の実践(行動)力の劣化に関する嘆きが、大前研一の著書に見られる。(以下は『知の衰退からいかに脱出するか?』光文社、から)
<考えはするが、なぜか行動には移さない>の項目で、
「いまの日本人はとにかく行動をしない。「羹懲りて膾を吹く」状態がいまだに続いていると思うしかない。
 頭の中で考えるぐらいまではやっているかもしれないが、それがアクションにまでつながるかというと、どうしてもできないのではないだろうか?ソフトバンク孫正義氏みたいに、すぐに行動に移せる人間が極端に少ない。孫正義氏は「失敗しても生まれたときの状態に戻るだけだ」と、どんな場合でもすぐ行動に移している。私の世代も考えたらすぐ行動する。戦後の貧しい時代を経てきているから、それしかないのである。」

 現代日本最大の実践家である孫正義の言動には重みがある。
 ちなみに、悪党の世界でも「手のすることを、目よ、見るな。だが、やるのだ。」(『マクベス』)という風に、同様の原理が動いている。


 大前の言葉は”すぐに行動に移さない”という現代日本社会の病質を言い当てている。日本の(会社、官庁、病院などの)組織でもしばしば同様の傾向が見られる。とにかく、会議だ検討だ、みなで議論してみる、といった遅疑逡巡がはびこる。これを穿ってみれば、みなが無意識のうちに責任回避をはかっているという図柄が見えてくる。
 事に臨んでの”即断、即決、即実行”に関しては、昔の日本人のリーダーはとにかく優れていた。織田信長の越前朝倉攻めのさい浅井の裏切りを知ったときの取って返しの素早さ、毛利攻めの最中に豊臣秀吉本能寺の変を知った時の中国からの神速な大返し、など枚挙にいとまがない。
 当時の社会のリーダーであった武士は、行動に失敗すれば当然死ぬことになるし、たとえ生き延びたとしても、生きて恥辱にまみれるよりは、むしろ躊躇なく自死を選んだ。彼らの実践(行動)はまさしく命懸けのものだったのである。

 
 本書はなかなか良くまとめられていて、全体の構成のアイデアも秀逸である。この本を読む最大の効用は、何といっても小林秀雄を直接読みたくなることであり、私もそうすることにしよう。