「日本人はなぜ株で損をするのか?」藤原敬之著(文春新書、'11.12.20)―株で儲けるためではなく、投資というものの本質について考える本だ

本書を読むに際しては、ナシーム・ニコラス・タレブ『まぐれ』ダイヤモンド社)に次のように書かれているのを心に留めておきたい。
「運を実力と取り違える傾向がとても強い―そのうえ如実に表れている―世界が一つある。それは市場の世界だ。」
 そして、誤解一覧の中で<市場でのパフォーマンス>として、本当は左なのに、右と勘違いする状況(悲喜劇)を示している。
 運がいいだけのバカ → 能力のある投資家 
  生存バイアス     → 市場に打ち克つ
(生存バイアス:脱落あるいは淘汰されてしまったサンプルが存在することを忘れてしまい、一部の「成功者」のサンプルのみに着目して間違った判断をしてしまうというバイアス。)


 本書は平成23年5月20日京都大学で行った『株式運用。アクティブ・ファンド・マネージメントとは何か』と題した講義を再現したものだそうだ。社会経験はないが偏差値は高い学生相手には、著者の波乱に満ちた体験談と、そうした多くの経験と永年の研鑽を基にした投資術(理論)は、さぞや威嚇的とも言える効果はあっただろうと推察される。


 第一章の<ファンド・マネージャーとは何か?>は、著者のファンド・マネージャーとして成功を勝ち得ていく経歴、つまり著者のプロフィールとでもいう部分だ。


 第二章<株式運用の基本とは?そして独自の運用とは?>では、株式運用の基本、パッシブ運用とアクテイブ運用が語られる。要するに前者はインデックス・ファンドの購入のことであり、後者は株価指数を上回る結果を目指すというのだが、これにはクオンツ(数理的なアプローチを使って作成されたプログラムに任せるるもの)と、人間が判断を下してポートフォリオを作って運用するものがある。
 人間の判断として、さらにトップ・ダウンとボトム・アップに分けられるという。運用の目的が純粋に「収益をあげることだ」とすると、アプローチは本来トップ・ダウンになるはずだが、しかし、株式運用の世界ではボトム・アップのあり方が主流になっていると著者は言う。このボトム・アップのあり方は、さらにまたバリュー株運用とグロース株運用に分けられるらしい。
 ここまで読んでみて、話の筋道が隘路にはまり込んで行くだけで、ほとんど何も株運用の秘策は語られていないことに気がつく。単に株式投資の最大公約数的な手法が述べられているだけで、どうやったら株式投資で勝つのかについては何も示されていない。
 それももっともだ。そもそも株式運用で勝つ方法などはないからなのだ。株も競馬と一緒で、いわば運任せのギャンブルで、勝つための理論など立てようがない。


 著者もそんなことは百も承知で、「絶対的手法は存在しない」として次のように述べる。
「人間であろうとコンピューターであろうと、どのような運用手法であろうと、常に良い結果が出せる(常に市場を上回る銘柄の選択が出来る)絶対的なものはこの世に存在しないことは申し上げておきます。ある局面では良い結果を出せた運用方手法も別の局面では最悪の結果を招くのがこの世の常です。」


 それでも著者は、一般的に運用会社が銘柄選定の割高割安の目安として使われる株式投資指標として、PER,PBR,P/CFRを紹介する。著者はこの指標について一定の有効性を認めている。
 次に、著者が独自にあみ出したアプローチのあり方が説明される。(100%株で運用するという制約を設けてのこと。)
 まず著者が実際に農中で行った典型的で教科書的なトップ・ダウンでの運用方法の説明を行ってから、著者独自のトップ・ダウンが述べられる。
 著者の投資コンセプトはあくまで企業での成功体験に基づいている。著者独自のアプローチは、クレディ・スイスにおける「メガトレンド」をコンセプトとするファンドから始ったとのこと。一言で言えば、「フェーズで考える独自の日本株の見方」ということだが、技術的要素が多く、要約するのは難しい。しかし参考になる視点がいくつか提供されているので、直接本書に当たられることを薦めたい。
 
 次に、クレディ・スイスに入る前に勤めた野村投資顧問でのコンペでの連戦連敗の経験から、しっかりした基礎を作るために行った本格的アカデミズムへのアプローチ、具体的には読書案内に話の重心が移っていく。
 実は、この部分が一番面白く、また大いに啓発されることとなった。
 伊藤清アダム・スミスケインズシュンペーター岩井克人青木昌彦などの科学者・経済学者から(シュンペーターは第四章<株価とは何か?>でも詳しく語られる。)、日本人とは何かを考える上で、和辻哲郎小林秀雄折口信夫網野善彦丸山真男埴谷雄高など(第六章<日本人とは何か?>へと続いていく。
 特に小林秀雄については、本書に刺激されて、高橋昌一郎小林秀雄の哲学』朝日新書)を買って読んで感銘し、さらには小林を今まであまり読んでいなかったことを悔いて、今、新潮社の小林秀雄全作品』に取りかかっているところだ。
 また本書で紹介されている、伊藤清『確率論と私』岩波書店)というエッセイ集を読んでみたが、まさに一読巻を措く能わざる面白さだった。伊藤清という偉大な数学者の存在を教えてくれた著者に感謝したい。この本については稿をあらためて考えてみたい。


 第三章<情報をどう処理すべきか?>と第四章<株価とは何か?>では、投資の本質に迫る本格的な部分で、本書のタイトルから連想されるお手軽な投資術などとは一線を画する、洞察力に富んだ議論が展開される。詳述は避けるが、最も印象的だったのは、第四章の最後の方で、経済や市場の本質について「二項対立」という命題をしっかりと認識の中心におき、常に相反する要素を考えることで不条理への対応を可能にし、何もかもを割り切ることは我々が生きていく世界では不可能だと述べている部分である。
 そして結論として、株価にフェア・バリュー(適正価格)は存在せず、過大評価と過小評価のみ、と言い切っている。これが、株式運用における視点・思考を動態的(ダイナミック)なものに措くための重要な契機であるという。けだし卓見である。 


 第五章<日本人はなぜ投資が下手か?>で著者は、そもそも日本人が投資に向いていない理由を、一神教の環境で育った欧米人の”将来(=理想)ビジョン”の重視に対して、日本人は”今”に最高の価値を置くという価値観の違いを挙げる。欧米人であるユダヤ系と、(欧米ではないが)華僑の人々が最も投資術に長じていることは周知の事実だ。これには風土の違いもあるだろう。ユダヤも華僑(中国人)も故国の王朝の盛衰と興亡により故国を離れ、しかも一か所に定住せず世界中に散らばって生きている。彼らは、先祖代々一つ所に定住し、水と空気はタダと思って生活している日本人とは投資観はおろか人生観も大きく異なるのは当然だ。
 そこで、一体日本人とは何かを知ることがすべての基礎になくてはならないと著者は考えを及ぼす。そうした認識が前述の日本の思想家たちへのアプローチに繋がっていくのはごく自然な流れだろう。


 第六章<日本人とは何か?>では、著者は外国人とビジネスとの真剣勝負をしていく中で、日本人の特性について考えざるを得なくなったと言う。その上で、先述した日本の思想家の著述を読み込みながら考え、「投資が支配する世界の政治・経済・社会」という巨視的な視点で投資の本質に迫ろうとする。その姿勢は多くの示唆を与えてくれるものだ。