「確率論と私」伊藤清著(岩波書店、'10.9.14)―

前に述べたように、藤原敬之の著書で、伊藤清教授の存在を教えて貰った。このような偉大な学者を今まで知らなかったことを恥じるしかない。数学者で知っている名前は、高木貞冶、岡潔彌永昌吉小平邦彦、遠山啓、吉田洋一、矢野健太郎の各氏くらいであった。


 さて、伊藤教授の著書を読もうと考えても、数式に関しては目に一丁字もない私では、専門的な学術書を読むことは不可能である。しかし、前回の『日本人はなぜ株で損をするのか』で伊藤教授に標題のエッセイがあることを知り、早速読んでみたのだが、数式部分(あまり多くはなかったが)を飛ばして読んでもとにかく面白くてたまらない本であった。
 一読して強く感じたのは、やはり理系の大家は物事を曖昧にすることを許さないのだ、ということである。これに関連して思い出すのは、ニコラス・タレブが『まぐれ』の中の「文系のインテリは頭の中がぼんやりしているので、でたらめにだまされてしまう」(邦訳98頁)という言葉である。
(理系でも、最近のSTAP細胞をめぐる混乱のように、がっかりするような出来事が起こることもある・・・)


 本書の随所に伊藤教授の数学を学び始めた頃の話や他にも生涯のエピソードが散りばめられていて興味深いが、そこで感じたのは、理系でも伊藤教授のような一頭地を抜くような大人物は、その生き方からしてまことに直線的かつ明快で、もやもやと霧の立ちこめたような曖昧模糊としたところがない。
 汚濁した霧の中を、彷徨い迷いつつ行方も分からないまま人生を歩んできた私のような救い難い人間にとって、先生のような生き方は真にまばゆくて仕方がないのである。