「経済学の犯罪」佐伯啓思著(講談社現代新書、'12.8.20)−「セイの法則」について考える

本書を通底している著者の一貫した態度は、資産バブル崩壊後、デフレに陥っていた日本でとられた、本来インフレ対策であるはずの「新自由主義政策」(小泉構造改革など)への徹底した批判、嫌悪である。
 著者の考え方は、本書でも引用されているように、カール・ポランニーに負うところが多いように思われる。またセイの法則が「構造改革」の根底にあるとする捉え方も、セイの法則リカード以来経済理論を災いし続けたとする森嶋通夫の『思想としての近代経済学』が先鞭をつけている。いずれにしても目新しい考えではないが、巧みな構成の下、随所に確かで新鮮な目配りがあって、昨今のグローバル経済と過剰性の批判へと論旨を導いていく練達の手法は、一気に読みとおす魅力があって、さまざま教えられるところの多い本であった。


 ついでに言うと、「セイの法則」についてはケインズが『一般理論』(第1編序論、第2章)において「供給はそれみずからの需要を創り出す」としたフレーズで紹介し、古典派経済理論への批判のツボとしているが、セイのもともとの言葉は、例えば「全ての国において、生産者の数が多くなればなるほど、そして生産が増えれば増えるほど、販路はよりたやすく、多様で広大なものになる」(『政治経済学概論』第1巻”冨の生産”15章”生産物の販路”)というような表現であり、これらをケインズが上記のように言い換えたものである。



 森嶋は前掲書で「現実の経済ではセイ法則が成立しない。需要が供給より少ない(多い)場合には、供給が減らされ(増され)、供給が需要に適応するのである。すなわちセイ法則の逆(私はそれを「反セイ法則」と呼ぶ)が成立する。」と述べ、終章で「本書ではリカードに始まり、ケインズの出現で終わるセイ法則時代を取り扱った。」として、セイの法則がどのように害毒をまき散らすことになったかを述べている。
 だが、ケインズによって葬られたはずの「セイの法則」が、日本の「構造改革」を始めとして、どうやら(マルクスの『共産党宣言』の)幽霊のように今でも世界経済の混沌の中をさまよっているようだ。


 また、セイのいわゆる「販路の理論」は多面的な理解を許し、シュムペーターなどは、恐慌理論と結びつけて論じている。即ち、セイの販路の理論によれば「一般的な過剰生産は存在しえないし、生産から経済的均衡の基礎的な撹乱は決して発生しないから、従って恐慌の原因はただ生産の不当な比例すなわち一財の相対的過剰生産にのみ存しうる。」(『経済学史』269頁、岩波文庫)のである。


 第1章<失われた二〇年・・構造改革はなぜ失敗したあのか>で先ず著者は、日本は1990年代以降、ずっと実質成長率が名目成長率を上回る、つまり平均物価水準が低落しているという長期にわたるデフレ経済が「構造改革」の失敗であったと筆誅を加える。この間、賃金も長期的に下落し、ジニ係数も1996年あたりから上昇傾向にあると指摘する。
(ご存知のように、ジニ係数とは、貧富の格差を測る指標であり、0〜1までの分布で、0が平等で、1に近づくほど不平等となる。)
 ただこうした指標とは逆に、日本経済は2002年〜2007年長期景気回復傾向にあった事実を指摘し、これは、一つには大企業の賃金抑制(非正規雇用の増大)の効果であり、二つには輸出の貢献(具体的にはアメリカと中国の成長のおかげ)によるものであり、これらの傾向はたまたま小泉首相の在任期間と重なったため「構造改革」の成果と宣伝されるが、決してそうではないと分析する。著者は「消費需要は伸びず、企業投資も伸びず、デフレ経済にあって、しかも好景気などと言えるのであろうか。確かに何かおかしいのである。」(12頁)と述べる。


 また著者は、日本の緊急問題として、財政問題と、この十数年のデフレや雇用不安を挙げ、後者の方がより深刻、より緊急の課題と考える。そして、どうして日本は長期にわたるデフレ・雇用不安に陥ったかの理由を示したうえ、「構造改革」を長期的停滞の原因として、その基になった<新自由主義イデオロギー>の教義の三つの特徴を示す。
1、1980年代のアメリカとイギリスで採用された考え方だが、この両国はともにインフレが進行し、産業競争力が低下していたが、日本はバブル崩壊後デフレに向かっていた。新自由主義は本来インフレ対策であり、デフレに陥っている経済に対しては明らかにマイナスに作用する。
2、構造改革論の考え方に一つの前提が隠されている。それがまさに<セイの法則>なのである。モノの市場で需給ギャップはないという立場からは、デフレはもっぱら日銀の金融政策に関する金融現象(失敗)としか説明できない。しかし、もしデフレが総需要と総供給のギャップによって生み出されているとすれば、超金融緩和はほとんどデフレ対策にはならない。
3、生産要素(労働、資本、土地又は資源)は市場化に制約がかかるところに特質があるのだが、「構造改革」の重要な意味は、市場化困難な生産要素まで市場競争にさらしてしまった点である。なぜなら、生産物の市場においては、もはや十分な利益を挙げることができなくなってしまったから。→グローバルな価格競争が原因である。
 この辺は、ポランニーの考えによっている。ポランニーは、労働、土地、貨幣は産業に基本的な要因であり、これらが商品でないことは明白であるが、にもかかわらず、これらを商品視する擬制があるとする。そしてそのような擬制を許す市場メカニズムを厳しく糾弾している。(『経済の文明史』第1章”自己調整市場と擬制商品”―ちくま学芸文庫


 第1章の説明だけで紙数を使い過ぎた。参考までに各章のタイトルだけを記しておく。是非直接本書を紐解かれることをお薦めしたい。得るところが多いのは勿論のこと、読み物としても実に面白いからである。
 第2章 グローバル資本主義の危機・・リーマン・ショックからEU危機へ
 第3章 変容する資本主義・・リスクを管理できない金融経済
 第4章 「経済学」の犯罪・・グローバル危機をもたらした市場中心主義
 第5章 アダム・スミスを再考する・・市場主義の源流にあるもの
 第6章 「国力」をめぐる経済学の争い・・金融グローバリズムをめぐって
 第7章 ケインズ経済学の真の意味・・「貨幣の経済学」へ向けて
 第8章 「貨幣」という過剰なるもの・・「希少性の経済」から「過剰性の経済」へ
 第9章 「脱成長主義」へ向けて・・現代文明の転換の試み