「僕は君たちに武器を配りたい」瀧本哲史著(講談社、'11.9.21)―コモディティにならないために

著者が本書で対象としているのは、新卒で社会に出ようとしている学生、あるいは社会へ旅立ったばかりの若者であり、彼らに困難な現在の日本社会で生き抜くための「武器」を配ろうとする。これが本書を貫く明確なコンセプトだ。

 遥か昔、何百光年か前に若者だった私には縁のない本だろうと、買ってそのまま放置していたのを、ふと思い立って読み始めたのだが、傍線とポストイットで書物をこれ以上ないくらいゴチャゴチャ飾り立て、一気呵成に読み切ったのである。なかなか、若者だけに読ませるのはもったいない、費用(1,800円+税)対効果の高い本だ。さまざまな疑問や矛盾を抱えて仕事にいそしんでいる中高年のおじさんたちにも有益であると太鼓判を押したい。

 さて「はじめに」を読むと、この本を書いた著者の意図がよく分かる。
「本書は、これから社会に旅立つ、あるいは旅立ったばかりの若者が、非情で残酷な日本社会を生き抜くための、『ゲリラ戦』のすすめである。」
 そして著者は、若者にとっての非情で残酷な社会の表象(シンボル)として次の三つを挙げる。
 一つは、学生や若者を食い物とするビジネス、すなわち「ブラック企業」と呼ばれる企業の跳梁。次に、就職や再就職に対する学生や若者の不安につけこむ「就活ビジネス」の盛況ぶり。三つ目が、グローバル企業に象徴される、アジア圏の優秀な学生などとの職の奪い合い状況を挙げる。

 著者は、こうした厳しい状況の中で学生や若者がこの社会を生き抜くための「武器」を与えるために本書を著したのであるとし、なすべきことは、自ら新しい「希望」を作り出すことだと言う。

 こうした前置きを踏まえた上で、本書の目的を、著者は自分自身が一人の投資家として実践してきたという「投資家的生き方」のすすめであるとする。

 そのために重要なのは、まず資本主義の本質を理解することであり、そのメカニズムを正確に認識して、日々変幻する情報を察知して、自らの行動につなげていくことが大切であると言う。

 本文では、現代の資本主義の分析に入るが、最重要のキーワードはコモディティ化である。そして、コモディティ化は商品だけではなく、労働市場における人材の評価においても、同じことが起きていると指摘する。さらに著者は、これからの時代、全ての企業、個人にとって重要なのは、コモディティにならないようにすること」なのだと断言する。

 本書を読む最大の価値は、この世界中の産業で同時進行しているコモディティ化の潮流を理解することにある、と言っても過言ではない。

 コモディティ(commodity)の概念についての著者の説明はこうだ。
 この場合は、経済学や投資の世界で使われる意味合いであり、市場に出回っている商品が、個性を失ってしまい、消費者にとってみればどのメーカーのどの商品を買っても大差がない状態、それを「コモディティ化」と呼ぶ。
 つまり、個性のないものはすべてコモディティであり、どんなに優れた商品でも、スペックが明確に定義できて、同じ商品を売る複数の供給者がいれば、それはコモディティとなる。
 そして、コモディティ化した市場で商売をすることの最大の弊害は、「徹底的に買い叩かれること」にあるとする。

 本書での現代資本主義の現状に関する著者の縦横無尽な分析は鋭く、俗な言葉で言えば、面白くてためになる。日経新聞を鵜呑みにするな、など様々な俗説を一刀両断のもとに退けているのが小気味よい。
 しかし、分析だけで終わらないのが本書がパワフルであるゆえんだ。
 著者は資本主義で稼ぐことのできる6つのタイプを示し、そのうち2つのタイプは価値を失っていくであろうと言う。
 1 トレーダー
 2 エキスパート
 3 マーケター
 4 イノベーター
 5 リーダー
 6 インベスター=投資家

 このうち、今後生き残っていくのが難しいのは、1、2であると言う。

 残った4タイプのうち、著者が最も推奨しているのが「投資家として生きる」道であり、実に懇切丁寧に、微に入り細を穿って、手取り足取り説明している。というのも、著者の分析では、日本には投資に対する大きな誤解がはびこっている、つまり投資と投機が混同されている現状の是正から行わなければならないからだ。しかし、投資家的生き方に対する著者の情熱溢れる説明ぶりも、著者自身の経歴の呪縛が感じられ、必ずしもうまくいっているとは思えない。
 一つだけ例を挙げると次の文章。
だからこそ、私は本書で、これからは投資家的な発想を学ぶことがもっとも重要だということを繰り返し述べたい。なぜならば、資本主義社会では、究極的ににはすべての人間は、投資家になるか、投資家に雇われるか、どちらかの道を選ばざるを得ないからだ。」 

 
 この分析はやや短兵急に過ぎよう。例えば私の勤務する「医療法人社団」はこうした見方に当てはまらない存在だ。詳しい説明は避けるが、平成19年4月1日施行の第五次医療法改正における医療法人制度改革でこの傾向が徹底されている。
 例えば、新たに設立する医療法人は、持分の定めのない医療法人となり、残余財産の帰属も制限され、国、地方公共団体、公的医療機関の開設者(医療法人における開設者という概念は理解しづらい)、他の医療法人、医師会に限定された。
 従来の持分の定めのある医療法人も経過的に存在が許されるが、そもそも従来から医療法人は、剰余金の配当が禁止されており、また株式会社のように出資額に応じた議決権もない。この世界では、投資額に応じたアドヴァンテージなど全くない。
 医療法人には厳密な意味で投資家はいない。いわゆる投資ファンドなども全く目を向けないであろう。つまり、資本主義という枠から大きく外れた存在で、病院などは公的なもの以外は存在してはいけないということだろうか。
 医療法人以外でも、1998年の「特定非営利活動促進法」で制定された"NPO法人"などもあり、法人制度も相当複雑になっていて、単に投資という概念一本では掴みにくくなってきている。

 著者は、会社は誰のものか、という問いを掲げ、投資家としての経歴にふさわしく「会社は株主のもの」と答えている。
 私は医療法人に勤務しながら、しばしば、医療法人は誰のものか、と問いかけてみるが、未だに答えを得ていない。医療法人は、資本を所有するという考え方になじまない、厚労省によって継ぎはぎだらけにされた不可解で中途半端な制度だからだ。

 日本は、国民の冨の再分配と社会保障への強い希求と、その根底にある国民の冨の不均衡に対する飽くなき嫉妬心と憎悪から、また敢えて言えば主要官庁の権力掌握のための社会制度への必要以上の強い干渉と跋扈から、著しく社会主義化している。それが、著者の主張する「投資」の在り方に対する強い阻害要因になっている。