「入門!論理学」野矢茂樹著(中公新書、'06.9.25)−言葉の使用法の逸脱を退ける厳密さを学ぶ

記号を一切使わずに、論理学の入門書を書くなどは、相当の離れ業と言っていいだろう。ウィトゲンシュタインでお馴染みの野矢茂樹の、他に類を見ない力技であり、恐れ入ると言うしかない。
 本書は「入門!・・」とうたっているが、実に手ごわい入門書であり、脳髄を目一杯絞らないと、特に<ド・モルガン>の法則が出てくるあたりからは理解が困難になる。どうやら認知症予防にも役立ちそうではないか(笑)。
 本書は、著者の語り口が絶妙で、出色のナビゲイターの役も果たしてくれる。論旨がややこしくなると、すかさず軽口で読者の気持ちをほぐしてくれる、このへんの呼吸は落語の名人を思わせる。しかし、内容は実に高度なもので、読み進むにつれ論理学の核心(と思われる)に導いてくれる。しかし、文字だけで導いてくれるのはいいが、実は理解するために大層難儀をするのも事実だ。

 先ず、論理学が扱うのは「演繹的推論」であると述べ、続いて論理法則として、「排中律」「二重否定則」「背理法」「矛盾率」と話は進んで行き、「ド・モルガンの法則」に行きあたる。(おや、二重否定も矛盾率も、まるで前に吉本隆明のところで引用した三浦つとむの『弁証法は・・』にある弁証法の法則を思わせるではないか。)

 著者の説明によれば、そもそも命題論理を体系として成り立たせる否定語と接続語は「ではない」「そして」「または」「ならば」(否定詞と接続詞)だけであり、述語論理ではこれに「すべて」と「存在する」(対象の量に関わる「量化」の言葉と言われる)が推論に加わる。論理学の体系は「命題論理」と「述語論理」の二つの推論により完成を見るのだと言う。

 ちょっと本書の説明を覗いてみよう。
「ド・モルガンの法則」については、同じ著者の『論理学』を見ると、命題論理としては論理記号を用いて次のように表している。(別に、述語論理にも「ド・モルガンの法則」があるのだが、いずれにしてもこの短い感想の中で分かるような説明するのは困難であるし、そもそもこの小さい著書のみで十分理解するには私の理解力も相当不足している。)
  ¬(A∨B)≡¬A∧¬B
  ¬(A∧B)≡¬A∨¬B

 これを著者は、連言(純粋な「かつ」という接続の型)と選言(「または入れ」と消去法の組み合わせで規定される接続の型)について懇切に説明した上で、ド・モルガンの法則について下記のように言葉で表している(↔ は論理的に同値ということ)。

 選言の否定 ↔ 否定の連言
 連言の否定 ↔ 否定の選言

 もっとも、「連言」にしても「選言」にしても前述の括弧内の説明だけでは全く理解はできないだろう。いずれも著者が細心かつ巧みな手さばきで進めてきた論理の文脈をワンステップずつ呑み込みながら辿っていかないと分からないのだ。従ってこうした言葉による論理の表し方を、辞典のように閉じられたひと塊りの概念として説明するのは難しい。
 ただ、著者が別の本で述べている「『論理的』ということと『言葉遣いの正しさ』とが不可分のものだ」(『論理学』東京大学出版会)という考え方はよく理解できるのではないか。論理記号を言葉に置き換えるとき、最大限の言葉の正確さが求められるからである。同じ本で著者が言うように、言葉の使用法を逸脱した詩でのような表現の仕方では論理は扱えないのだ。

 論理記号は、数学のさまざまな数式記号(関数・行列・微積分など)とは異なり、ポイントを押さえてしまえば、それなりの理解は可能だが、見慣れない奇妙な形をしているのでつい敬遠したくなる。こうしたことを念頭に(また、編集者の強い要請で)著者はこの本を著したのであろう。

 本書は、第4章あたりから読むのが辛くなってきて、第5章「命題論理のやり方」で命題論理の法則などの論理学の必須の考え方が大波のように次々と押し寄せてくるため、読み切って行く辛さもピークに達する。本書は、積み重ねられてきた命題論理の体系(「否定」「連言」「選言」「条件法」のそれぞれ導入則と除去則)の相応の咀嚼を前提に議論が組み立てられ進んで行くのだが、「ひとつの完結した論理体系」(著者)である命題論理の体系の理解と活用がこの小さな本では十分体得できないため、論旨を追うのが次第にしんどくなってくるのだ。すでに論理命題にしてしかり、いわんや述語論理の公理系などにおいておや。

 さはさりながら、本書での著者の説明は実に明晰で言葉にも曖昧なところがなく、極めて良心的な著作である。この書の理解の難しさはそもそも論理学それ自体の難しさであり、この書だけで論理学の何たるかを十分に学び切るのは、元々困難なのだ。著者もそんな欲張ったことまで考えて書いた訳ではあるまい。
 しかし、本書を通読することで論理学の大まかなパースペクティブを得ることができるし、何よりも論理学の面白さが伝わってくる。多分著者の狙いはその辺にあるのだろう。そのため次のステップとして、著者は自身の作『論理学』(前出)を用意してくれているのである。