「ヘンリー・ジェイムズ短編集」大津栄一郎編訳(岩波文庫、'07.7.12)を読む―汲めども尽きぬ文章の魅力、だが年月により風化は進む

 ヘンリー・ジェイムズは十九世紀後半から二十世紀にかけてイギリスで活躍したアメリカ作家である。(この辺は、ジェイムズを敬愛し、フランスなどヨーロッパで活躍したアメリカ作家のパトリシア・ハイスミスと酷似している。)

 まず「ヘンリー・ジェイムズ短編集」大津栄一郎編訳を読む。
 この短編集には、中期から後期へかけての以下の4つの作品が収められている。

1、私的生活(The Private Life,1893)
2、もうひとり(The Third Person,1900)
3、にぎやかな街角(The Jolly Corner,1908)
4、荒涼のベンチ(The Bench of Desolation,1910)

このうち『私的生活』と『荒涼のベンチ』の2作品は、中村真一郎の『小説家ヘンリージェイムズ』(集英社、'91.4.10)で取り上げられている。中村のこの本は、ジェイムズの長編および中短編小説のうち74作品について論考を加えた貴重な書物で、ジェイムズを読む場合欠かせないものとなっている。ほんの短い感想的なものもあるが、それぞれの作品のツボを押さえて外さない、実に見事な仕事である。一部は(特に長編を中心に)国書刊行会の『ヘンリー・ジェイムズ作品集』の巻頭の感想も含まれている。

 さて、ヘンリー・ジェイムズに寄せられる評価は多様で、なかなかかまびすしいものがある。曰く、文体の「晦渋さ」、作品全体を覆う「曖昧さ」、心理的表現の常軌を超える「執拗さ」、手の込んだ「複雑さ」、そして「怪奇趣味」など。そして、中村真一郎の言葉を借りれば、その作品は「主人公の目だけを通して見た外界と、同じ主人公の内面での想像のイメージとだけから構成」されている。
 こんな作家ゆえか、ジェイムスは”研究される作家”の筆頭に位置するようだ。『ヘンリー・ジェイムズ研究』(南雲童'77.11.10)の巻末には、汗牛充棟ただならぬほどの研究文献が紹介されている。小説をあたかも哲学書であるかのごとく、分析したり、研究ばかりしていてもしょうがないのだが・・・。

 この短編集に収められている中短編は、初期の『デイジー・ミラー』に見られるような平衡感覚は影を潜め、先に指摘した、晦渋、曖昧、執拗のお手本のような作品だ。

 ここでは先ず、『私的生活』について見てみよう。
 冒頭のスイスの氷河を絡めての描写とそれに続く最初の頁は実にうまいと思った。
「そそり立つ太古以来の氷河を目の前にして、私たちはロンドンのことを話し合った。」で始まる出だしの巧みさは何度読んでも感嘆させられる。

 この作品を訳者が解説で謎解きをしているし、中村真一郎もほぼ同一の指摘を行っている。主要な登場人物である貴族には公的生活があるのみで、私的生活はなく、一方文壇の大立者である流行作家にはゴースト・ライターの分身が存在し、表の流行作家は凡庸な社交家に過ぎない。大津は、そのゴーストライターの存在は、その流行作家クレア・ヴォードレーに対する「私」の嫉妬心と軽蔑心からの幻覚であると指摘する。「私」はこの作品の叙述者で、作者を思わせる冴えない二流作家である。

 最初に読んだ時には、人が消えたり、影の存在があったりで訳のわからない不気味さ、不思議な雰囲気を感じたのだが、謎解きの後に読み返してみると、公的生活と私的生活を寓話的に描かれているのが、そこだけが作り物めいていてやや浮いた感じがする。
 まあ、謎解きがあまりに明快すぎては、作品のトータルな理解や美質を損ないかねず、大きなお世話かもしれない。

 また『荒涼のベンチ』は、大人の童話あるいは寓話めいているが、プロットだけ見ると、いたって不自然、いや非現実的な作品である。
 作品の前半と後半では、ケイト・クッカムの人物イメージが違い過ぎる。ハーバート・トッドは、前半では彼女について「生まれつき下品で、粗野で、本質的に意志過剰で、良心が欠如している」など口を極めてその悪女ぶりを非難しているが、後半では一転して、謙虚で、悲しみを内に秘めた淑女を思わせる人物に描かれている。これは、作品が一貫してトッドの心理的視点から描かれているため、トッドのその時々の感情のうごめき、つまり憎悪や嫉妬、あるいは精神の衰弱からくる幻覚、また悲観などから、ものの見方にバアイアスが掛っているためかも知れない。トッドがクッカムのために借財を負わされ貧窮に沈み、またその後結婚した妻と二人の子供を亡くし、ついに精神に変調をきたしたことは容易に想像できる。10年後にクックがトッドの前に現れ、大金を差しだす。一読美談めいてはいるが、二人が再会した後、あたかもトッドという蝿がクッカムという女郎蜘蛛の巣に絡め取られていくように見えるのは僻目(ひがめ)であろうか。

 この作品は、ジェイムズ晩年の円熟の極致とでも言うべき手法で描かれるが、その描く事実、トッドとクッカムの男女関係は荒唐無稽としか言いようがない。朦朧、執拗というジェイムズの特徴は、ジェイムズの手法にも増して、衰弱したトッドの精神状態の反映とも見える。

 この後、『デイジー・ミラー』西川正身訳(新潮文庫、H.19.7.15)と、『ねじの回転』南條竹則他訳(創元推理文庫、'07.4.13)を久しぶりに再読したが、紙数も尽きたので感想は略す。ただ、ジェイムズの書いた多くの作品は、100年を閲(けみ)した風化しつつある小説であり、大学のの英文学研究者や余暇を持て余している贅沢な人たちを除く一般の読者が、忙しい日常の合間を縫って読むべき書物ではあるまい。