「ナイン・テイラーズ」ドロシー・L・セイヤーズ(浅羽莢子訳:創元推理文庫、'98.2.27)−浅羽莢子と平井呈一の訳で読んでみる・・・ついでにレ・ファニュの「緑茶」についても

ずーっと本棚の隅で眠っていた名のみ有名なこの作品(創元推理文庫浅羽莢子訳)を読み始めたが、この翻訳には難渋した。訳文に正確を期そうと、英語の構文に忠実に訳したような感じがある。そのためか、表現が回りくどくてイメージが掴みにくく、読んでいても状況がスムースに頭に入ってこない。(原文を見たわけではないので、あくまで感想に過ぎないが。)

 一例を挙げよう。この翻訳では、英国の田舎の人々の言葉が奇天烈である。いわゆる田舎弁丸出しという感じをイメージしているのだろうが、これは一体どこの田舎弁だろう。例えばヘゼカイア・ラヴェンダーのセリフはこうである。
「お目にかかれて光栄でのす」(37頁)
「御前様はなんも忘れさっしゃらんかったっぞ。しばらくさしゃっちょらんつうのに」(42頁)
「まあまあってとこでのす」(61頁)
 また、ゴトフリーのこの田舎弁らしきセリフには思わず吹き出してしまう。
「おや、そうですのかや?・・・・・・・・冗談か何ぞに見えませんかや?ひょっとかしたら」(105頁)
 後述する平井呈一の田舎弁の訳し方に悪乗りしているように思える。

 この作品は、イギリスの女流作家特有の退屈さが持ち味である。(それらの女流作家としては、アガサ・クリスティー、ルース・レンデル、P.D.ジェイムズの名前が頭に浮かぶ。)
 この作品には古くは平井呈一の訳があり、すでに絶版になっているが、今は電子書籍で読むことができる。そこで楽天kobo touchで買い求め、読み直してみた。さすがに「吸血鬼ドラキュラ」の訳者、ややくだけてはいるが、まことに練達の翻訳で抵抗なくストーリーを追うことができ、浅羽莢子の訳と重ねて読むことで、初めて全体像が頭に入ったのである。

 この作品はミステリーとしては中途半端だ。普通の文学作品としても同じで、いずれにしても物足りない。理由の一つは、登場人物の造形の平板さだ。善悪いずれにしても強烈な個性をもった深みのある人物が一人も登場しない。唯一の悪役であるジェフリイ・ディーコンでさえ影が薄い。探偵役のピーター・ウィムジイ卿にしてからが、推理の冴えを見せる名探偵とはとても思えず、ただの狂言回しにしか見えない。また、必要のない登場人物が多すぎて、読者の集中力を削ぐ。彼らはほとんどが犯行には関係なく、また犯人でもないことは最初から明白である。それにしても登場人物たちの饒舌ぶりには驚くしかない。
 また、トリックも長大な作品の割にはせこい。死体を隠す動機にはある錯覚が用いられているが、今ではテレビドラマで使われることも多い陳腐なものだ。殺人に関するトリックは前例のないものだが、しかしまことにあっけなく、解明の仕方も淡白過ぎて物足りない。
 本作品は、浅羽訳で492ページもあり、ミステリーとしては、時間に余裕のある好事家を別にすれば、敢えて読む必要もないだろう。

 この作品の舞台は、英国東部のフェンズと呼ばれる沼沢地であるが、フェンズといっても広大なので、一体どの辺りかは見当がつかない。あまり小説などの舞台としては登場してないようなので、読んでいてもイメージがわかない。東アングリア(ノーフォーク、サフォーク両県)であることはヴェナブルズ教区長が述べているから分るが、ベドフォード伯爵という名前もでてくるから、その辺りかもしれない。湿地が広がっている地方と考えるとノリッジ近辺も考えられるが、ロンドンから距離があり過ぎる。ロンドンからは、ノリッジだと150キロだが、ベドフォードならその半分だ。(ウィムジイ卿は舞台となったフェンチャーチ・セント・ポールを頻繁に訪れている。)

 鳴鐘術については、平井版に比べて浅羽版はよく調べているようだが、どちらにしてもわれわれ日本人には理解が困難であるし、鳴鐘術を理解することとトリックそのものとは何の関係もなく、それが懇切詳細に書かれている分だけ、(日本の)読者の意欲を削ぐのに役立っている。多分怪奇な趣向のために鳴鐘術を採用したのだろうが、あまり効果を挙げているとは思えない。

 思い出したのは、同じように期待をもって読んで奇異に感じたシャーリー・ジャクスンの「たたり」だ。スティーブン・キングが絶賛したということもあって、この作品も多くの礼賛の中にある。私の感覚がおかしい(小説嫌い?)のか知らないが、期待はずれでがっかりした記憶がある。(ジャクスンも米国人ではあるが、女流作家だ。)
 やはり、キングが強く推奨したスコット・B・スミスシンプルプランもそうだ。人間の品位を貶める、こんなくだらない作品はない。キングは、彼が絶賛した作品ではなく、彼自身の作品を読むべきだ。 

 この作品でたびたび言及されているアイルランドの作家J・シェルダン・レ・ファニュについては、セイヤーズも高く評価していたらしい。しかし、作家としては勿論比ぶべきもない。例えば著名な「緑茶」を見てみよう。
 読み始める否やあっという間にレ・ファニュの世界の虜となり、物語にぐいぐい引き込まれて行く。作品自体も、その主人公のジェニングス師も、とても一筋縄ではいかない、驚くべき陥穽に満ちた恐ろしくも深遠な傑作だ。無論、訳者は怪奇小説翻訳の第一人者の平井呈一というのも嬉しい。(この作品は、全編を平井呈一が訳した創元推理文庫の「怪奇小説傑作集1」に収められていて、手軽に読める。)
 なかでも、主人公のジェニングス師が乗合馬車のなかで小猿の幻覚を見るところが一番恐ろしい。レ・ファニュの文章は(翻訳で読んだ限りだが)奥行きが深く、心理的な雰囲気作りが実に巧みだ。

 この作品で、もう一つびっくりしたのは飲み物としての”緑茶”のことだ。この作品の<むすび>の「悩める人達に一言」でこの物語の話者であるドイツ人医師マルチン・ヘッセリウスはおおよそ次のように述べている。これはジェニングス師の緑茶を愛飲する習慣に絡めて述べた言葉だ。
 すなわち、緑茶のような興奮剤を習慣的に濫用すると、簡単に言えばそれが脳や神経を冒して、肉体からはなれた霊が人に作用する。その結果、幻覚を見たり譫妄症になったりする。
 それが本当なら、ほとんどの日本人は幻覚症と譫妄症を患っていることになる。(勿論そんなことはない、これはただの愛嬌である。)しかし、小道具として緑茶がでてくると、日本人としてはむやみに嬉しくなる。

 私は10年以上にわたって精神科病院に勤務しており、ジェニングス師に見られる症状についてはある程度予断を持っている。症状の進行状態も少しは分る。しかし、この物語の最後の最後に至って、ヘッセリウス医師の思いもかけぬ見立てが述べられ、驚くと同時に成程と納得し、作者の巧妙な仕掛けに感嘆することになるのである。そして、今まで読んできた物語が、全く別の風景の本(もと)に見えてくるのだ。

 レ・ファニュには、セイヤーズも本書で引用しているワイルダーの手」国書刊行会、S.56.10.25)という長編がある。これも好事家の読む作品だ。発表が1860年というから、今と違って夜は真の闇が支配し、テレビなど気を散らす要素も少ない頃だ。そんな深夜、ランプの光のもとでこんな小説を読めば、解説で荒俣宏が言うように、”同時代作家ディケンズは本書『ワイルダーの手』を天下双絶の奇書と称揚し、心理小説の実践者ヘンリー・ジェイムズですら「真夜中人が寝静まってから、どこかの山荘あたりでレ・ファニュの小説をひとり静かに読むのが、自分の読書の理想像だ」・・・・”ということになるらしい。
 しかし、まだ読んでいる途中でなのあまり偉そうなことは言えないが、わざとらしい怪奇趣味、取りとめもない話の組み立て、間延びした時間の流れ、思わせぶりな叙述の仕方など、現在の読者の観賞に耐えるのはなかなか困難であろう。
 いずれにしても、短編「緑茶」で見せた切れ味の鋭さや人間の心の奥底の伺い知れない気味悪さと、悠長な長編の作品作りはまるで別人のようだ。