「曲がった蝶番」ジョン・ディクスン・カー、三角和代訳(創元推理文庫、'12.12.21)―ストーリーテラーの面目躍如、だが・・・・

久しぶりに本格ミステリの代表的作品を読んでみた。本格ミステリは大学時代以来ほとんど読んでいない。その頃はヴァン・ダインが一番の贔屓作家で、ウィルキー・コリンズクロフツ、フィルポッツ、ルルー、ベントリー、クイーン、クリスティなども一通り読んでみたが、心から感銘したという記憶はない。カーで読んだのは、確か「皇帝のかぎ煙草入れ」くらいのものだ。

 ヴァン・ダインの「グリーン家殺人事件」は、以前に浜尾四郎が「殺人鬼」の中でバラしていた犯人の名前を覚えていたが、それでもやはりこの作品は面白かった。しかし、浜尾四郎ほどのミステリー作家が、このようなタブー破りを平然と行っているいる非常識さに、思い切り腹が立った。「グリーン家」の犯人は一度知ったら忘れられない印象的なキャラクターと名前だからだ。この年になるまで未だに犯人の名前が頭にこびりついて離れないのは「アクロイド殺し」と「グリーン家」の犯人くらいのものだ。

 現代では、すでに上記の本格物の作家たちが考え抜いた事件、犯人が奸智を傾けて企んだ悪辣な犯罪を、名探偵が打ち破るという古典的な枠組みは、すでに破綻してしまっている。今は、サイコパスによる狂気の犯罪が横行する時代だ。殺す人間の数、犯行の残虐性、動機の奇怪さ・不可解さにおいて時代が本格ミステリを遥かに凌駕してしまった。
 この傾向を早くから見抜いていたのがヒッチコックであった。例えば、「サイコ」、「フレンジー」。
 フィクションの世界(この場合は映画)でサイコパス犯罪への転換点となった金字塔的作品は、ゾディアックを犯人スコルピオのモデルにしたドン・シーゲルの「ダーティー・ハリー」であった。さらに、エド・ゲインあるいはテッド・バンディを犯人バッファロー・ビルのモデルとしたジョナサン・デミの「羊たちの沈黙」がこうしたトレンドを決定的なものにしたのである。

 さて、カーのこの作品では、冒頭に作家のブライアン・ペイジがさも意味ありげに登場するが、この人物はこの作品のとっかかりでの他の主要登場人物や作品の舞台のあらましの紹介役にすぎず、ペイジ自体は、(妙な言い方だが)ほとんど物語の役に立っておらず、ある種無駄な存在である。
 悪魔崇拝の描写もあるが、怪奇趣味の雰囲気作りのための薄い味付けに終わってしまっている。
 人物描写も類型的だ、と言いたいところだが、本格物は所詮パズラーなので、ないものねだりというものだろう。
 また、この時代(1938年発表)の本格物は、探偵役のもって回った思わせぶりなセリフや態度が特徴であるが、本作品の探偵役ギデオン・フェル博士もまさしくそうした典型で、もはや現代の読者には受け入れられることは少ないだろう。

 この翻訳は、新訳ということだが、どこか日本語として落ち着かないところがある。説明するのは難しいが、何かがしっくりこないのだ。例えば、東江一紀(フィリップ・カーの一連の作品や、ミッチエル・スミスの「ストーン・シティ」、最近では「数学小説 確固たる曖昧さ」)とか田口俊樹(トム・ロブ・スミスの「チャイルド44」ほか)などの練達の翻訳者に比べれば、どうしても日本語として稚い感じが否めない。(これは「ナインテイラーズ」の新訳で感じたのと同じ種類のものだ。どちらも訳者が女性だと言うのは、単に偶然に過ぎないだろう。)

 ここで、この作品をどうにかして褒めてみたい。何しろディクスン・カーは、かつては本格物の一時代を画す大立者だったのだから、挨拶代わりの敬意を表さざるを得まい。(以下の文章には、ネタバレが含まれている。)

 さて、何といってもディクスン・カーは稀代のストーリーテラーであることはこの作品が十分証明している。タイタニックでの入れ替わりというアイデアは秀逸であるし、ストーリーに次々と変化を持たせて退屈させない。よく色々考えつくものだと、ほとほと感心した。ストーリーには興味を引くような意外な展開が次々と仕掛けられていて、この心憎い小技が効いて、最後まで興味をつないで読み終えることができた。
 もうひとつ、この作品でカーは、ポーが「メルツエルの将棋指し」で取り上げたいわゆる”オートマタ”(自動人形)問題について、ひとつの決着をつけているのが注目される。実はファーンリであるパトリック・ゴアの身体の特異な状態(後天的なものだが)を前提とした特異な謎解きなのだが、当時の本格物では、こうした無理な解明法も大いに喝采を博したことだろう。
 1925年に「人間椅子」を書いている江戸川乱歩もさぞや我が意を得たりの思いでだったのではないか。それもあってか、本文庫の解説によれば、乱歩は「動く人形のなぞ」という題名で本作品を邦訳しているのだ。(<少年少女世界探偵小説全集>1957年、講談社

 さてこれまで、日本の叙述ミステリ(新本格物)から、ミステリの本場であるイギリスの定評ある本格物と読み進んできたが、結局、これらは暇人の暇つぶし以外に何の効用もないことが分った。ということは、日々多忙な生活を送っている人間や、人生で残された時間の少ない人間にとっては、全く読む必要がない、それどころか、貴重な時間を割いてまで読んではいけないものなのだ。かく言う私は、この二つのどちらもが当てはまるという難儀な状況下に置かれている。
 これらの本にも手を出した訳は、ブログの読書録には、たまにはこうしたエンターテインメント作品も含めなくてはならないという強迫観念があったのかもしれない。