「おれの血は他人の血」筒井康隆著(河出書房新社、S.54.7.20、15版)は日本版「赤い収穫」か?

『おれの血は他人の血』は、昔々、筒井康隆に凝って、作品を次々読み漁っていたころ買い求めたもの。久しぶりに読み返してみる。

 一体この作品を何と言えばいいのだろう。かねてより、ハメットの『赤い収穫』やそれを下敷きにした黒澤明『用心棒』(あるいはセルジオ・レオーネ『荒野の用心棒』)がネタ元だと評せられている。それは、著者が、作品中で主人公をして「まるで、ダシェル・ハメットだな」と口走らせているのを見ても明らかだ。(また、『用心棒』が『赤い収穫』を含むハメットのアイデアを借りていることは黒澤自身がその著書で認めている。)

 
 ハードカヴァー版は昭和49年2月20日に初版が刊行されているが、私が所有しているのは昭和54年の第15版である。
 Googleで調べてみると、昭和54年に新潮文庫で文庫化されていることが分り、Amazonのレビューで解説が山田正紀とある。絶版らしく新刊では在庫がないので、先般マーケットプレイスで中古本を買った。山田正紀の解説を読むためにだけである。山田の解説については後ほど。

 久しぶりに本棚から、小鷹信光訳の『赤い収穫』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1989.9.15)を引っ張り出して読む。もう何度目か。確か最初に読んだのは、『血の収穫』というタイトルで、多分田中西二郎訳の創元推理文庫版であったと思う。
 あらためて読み直してみて、ハードボイルドと呼ばれる小説のジャンルはここから始まったのだなと、再三肯き大いに納得した。その斬新なアイディアと、このジャンルの元祖としてのオリジナリティは凄い。 
 ハードボイルド小説の元祖は、厳密に言えば、キャロル・ジョン・デイリーと言われている。3点ほど邦訳された彼の作品を読んでないのであまり威張っては言えないが、現在ではほとんど知られることなく、評価もされていないようなので、その作品の質は推して知るべしである。矢張りハード・ボイルド小説の元祖の栄誉はハメットに与えられるべきであろう。 
 しかし本稿は、ハードボイルド小説を探究する場ではないので、この議論はこの辺で打ち止めにする。

『おれの血は・・』の前半は巧妙な伏線が張られる中で、登場人物の心理的葛藤が絡み合って緊張感に溢れ、ページをめくる手が止まらない。『赤い収穫』を読んだ後、もう一度読み返したが、巧みなプロットと、諧謔味に富んだ文章のおかげで、楽しく、少しも退屈せずに再読に耐えた。
 後半は、前半のストーリーの流れからはほぼ必然なのだが、対立するヤクザ組織を中心とする銃撃戦、暴力シーンの連続で、”おれ”以外の主要人物(左文字組幹部の沢田以外)はヤクザの親分も会社の重役たちも警察署長も、”おれ”と情を通じた美女二名もみな死んでしまう、という大殺戮シーンの連続である。

 この主人公の”おれ”(コンチネンタル・オプと異なり、”おれ”には絹川良介という立派な名前がある)は、本来しがないサラリーマンでしかないのだが、出産直後に新生児溶血性疾患にかかり、治療のため全血液の90パーセントもの直接輸血を受けた他人(デ・ロベルティスという本場イタリアの凶悪なマフィア)の血が騒ぐときだけ、とてつもない凶暴さを発揮するという、一種の二重人格小説のように始まっている。しかし物語が進むにつれ、”おれ”は、自分が時に凶暴な人格に転換することを知ってからは、ただのサラリーマンではなく、クソ度胸が座り、洞察力に優れ、断固たる行動力も兼ね備えたハードボイルド型人格に変貌していくのが分る。また、馬鹿の真似をして相手の本性を見極めたり、凶暴になる前兆である手の震えをわざと演じて見せたり、なかなかの知能犯というか戦略家の片鱗も見せる。

 ”おれ”の超能力は、スティーヴン・キング風味付けが施されていると見えるが、キングの『キャリー』(1974年)も『デッド・ゾーン』(1979年)も筒井のこの作品(初版が1974年)と前後しているので、どちらかがどちらかに影響を与えたということは考えられない。いずれもオリジナルな想像力の賜物なのだ。

 暴力(バイオレンス)の凄まじさでは、本作品は『赤い収穫』に匹敵するかそれを上回るが、あまりに極端な暴力シーンは、ほとんどリアリティというものが感じられない。恐らく著者は、様々な理由から、敢えてそれを意識して書いたのだろうと推察される。
 本作品では”おれ”が凶暴化するときの状態を、一部「癲癇」の発作になぞらええている場面があるが、後年の著者の『無人警察』での<てんかん差別騒動>の端緒がここにもあったのだろうか。私は、精神科病院に勤務しているが、少なくともこの作品の表現が特にこうした症状の患者を差別視しているとは思えない。むしろ、こうした表現がタブー視される社会の風潮こそがおかしいのだ。(無論、この作品が高校教科書に載るはずはないが・・。)

 この件で筒井を攻撃した団体を含め、一般に組織と言うものは、組織内部を引き締め、団結を図り、存在意義をアッピールするために、外部にシンボルとしての敵役(かたきやく)を求める原理の下にある。中国、韓国、・・党、新興宗教グリーンピース、そして、〇〇協会、**の会、などと名乗る様々の怪しげな圧力団体。
 日本のマスコミ(新聞、テレビ、作家や文化人と称する立派な人たち)はあまりものをよく考えないので、すぐに腰砕けになって、往々にしてこうした組織の主張に与する姿勢を取り、その上でリベラルを気取る。(奇怪なことに、現代の日本では”リベラル”とさえ言えば、よく意味が分らないまま、「絶対善」と見なされるのだ。)

 本作品は、ハメット作品と比べると、主人公の心理描写が比較的丁寧に描かれている。それが、心理描写を極限まで廃したハメット作品が乾いた感じがするのに対し、幾分ベタッとした感じを帯びる要因となっている。(ハメットの即物的筆致は『ガラスの鍵』でさらに徹底する。)
 物語の構成は、『赤い収穫』よりは対立の図式が単純で分り易い。また市長や警察署長が登場するものの、ストーリーに少々味付けをするスパイス程度の存在で、政治絡みの何かがある訳ではない。
 本作品を一言で言えば、B級グルメのご馳走というところであろうか。

 これを映画になぞらえれば、ハメット作品のマネージャーがハワード・ホークスジョン・ヒューストンとすれば、筒井作品のマネージャーはサム・ペキンパー、あるいはジョン・フリン、はたまたジョン・カーペンターといったところか。(勿論、ジョン・ヒューストンは『マルタの鷹』の、ハワード・ホークスは『三つ数えろ』の監督である。)
 ―つまり、エンターテイメントとしてはともに優れているが、作品としての”格”に違いがあると言いたいのである。

『赤い収穫』そのものが映画化されないのはなぜか分らない。冒頭に述べたように、この作品を原案とした映画は多いのに・・・不思議だ。
 プロットが複雑・巧緻で映像化に向かないのかと思えば、チャンドラー『大いなる眠り』も同様に複雑なプロットを持つ作品だが、ハワード・ホークスにより映画化(上述の『三つ数えろ』)されているのを見るとそうとも言えない。もっともこの映画は、予備知識なしの初見では、字幕スーパーを追いつつ込み入った筋を理解するのが難儀で、そう簡単には頭に入らないだろう。また余計なことだが、この作品を通してみた場合、ローレン・バコールの演じるヴィヴィアン・スターンウッドの、その時々の立ち位置と感情の動きが一貫せず不可解である。フィリップ・マーロウへの恋慕の感情の芽生えだけでは理解が通らず、どうも腑に落ちない。

 最後に、文庫版の山田正紀の解説だが、これは厳密には解説とは言えないのではないか。
 作品をめぐる周辺事情ばかりを面白おかしく書き連ねていて、作品そのものには十分迫っていない。ここでは作品の舞台となった架空の町を訪れる際の列車の中での架空の探偵との対話が中心となるが、ほとんどがありきたりの内容で、作家らしい洞察も見られず、特筆すべき情報もない。尊敬する山田ではあるが、この解説は適当に書き流したか、酔っぱらって書いたに違いない。