「うずまき」伊藤潤二著(ビッグコミックスペシャル:小学館、'10.9.4)−それは、集合的無意識の悪意か?

このコミックを知ったのは、佐藤優著『功利主義者の読書術』(新潮社、'09.7.25)によってであった。この本で佐藤優は、最初の章<資本主義とは何か>で、マルクス資本論』の次にこの『うずまき』を置いている。この章には他に、綿矢りさの『夢を与えるも』挙げられており、佐藤特有のペダンチック(衒学的)な構成となっている。このペダンチックさが、佐藤の言説の大きな魅力だが、反面、自らのペダントリーに自縄自縛に陥り、その結果マニアックに過ぎるというウィークポイントにもなっている。この『うずまき』についての議論は、そのウィークポイントが最もよく表れたものだ。この「ビッグコミックスペシャル」版ではご丁寧に解説まで引き受けているが、ここでは、佐藤特有の我田引水ぶりがやや暴走気味になっている様子が見て取れる。

 私は常日頃、コミックのたぐいを読む習慣は持っていない。今まで読んだものといえば、『ゴルゴ13』をかなり、『美味しんぼ』のほとんど、私も資格を持つ行政書士が主人公の『カバチタレ』、一度だけ入ったことのあるマンガ喫茶で読んだ『サラリーマン金太郎』、最近電子書籍で無料公開された『ブラックジャックによろしく』くらいか・・・。今回は佐藤の言説に魅かれて、衝動的にアマゾンで購入したものである。

 それにしても、本書の帯には「今日の格差・貧困社会の到来を予見したホラーの古典が、今甦る・・・」という佐藤の解説からの引用があり、さらにご丁寧にも「本書は21世紀の『資本論』だ。伊藤潤二マルクスなみの天才だ。」という佐藤のコメントまでが付されているが、『うずまき』というマンガ作品に必要以上に重い荷を負わせている気がする。マルクスも泉下で苦笑しているのではないか。

 たしかにこの作品は、寓話的に読みたくなる魅力がある。寓話の代表には、勿論”Aesop's fables"と正面から寓話(fable)を名乗る「イソップ物語」がある。現代文学としてはフランツ・カフカの数々の作品が存在する。カフカの作品の、例えば「城」を現実社会の不条理を表す何か(例えば官僚組織)のアレゴリーとして読むことは可能だろう。物語のテーマを何かの象徴を捉え、そのその象徴の本当の意味を(そんなものがあるとすればだが)求めたくなるのは近代以降のインテリゲンチアの知の脆弱性を意味しているのかも知れない。

 私は3年ほど前にカフカの故郷であるプラハを訪れた際、娘と町を歩いているときに道に迷い、夕刻になって気がつくと旧市街側のカレル橋のたもとに辿りつき、ふと見上げると川幅の広いヴルタヴァ川(ドイツ語でモルダウ)を挟んでプラハ城が忽然として眼に入った。夕闇に照明で輝くその威容を見て、これがカフカの城のイメージなのだと胸に落ちたのだ。(左の写真は、その時に撮影したものである。)
 新潮文庫の訳者(前田敬作)の解説によれば、城は<世界への所属の条件である律法>アレゴリーであるそうだ。いかにもカフカユダヤ系であることが前提になっているような理解の仕方である。しかし、プラハ城を見た瞬間に、いかなる巧緻な解釈をも超えて、私は城の実在を直接把握できたと思った。

『うずまき』はホラー漫画のジャンルに属するが、これを読むと、単にホラー漫画という域を超えて、いわゆるゲマインシャフトの(集合的で非個人的な性質をもつ)集合的無意識の不気味さを感じ、ユングの言う<元型の自律性>という概念が心に浮かんでくる。<元型の自律性>とは、人間の意識や意志の力では自由にならないものが人間の内に存在しているということを指す。元型とは、太古的で、神話、秘密の伝承、おとぎ話である。そしてその元型によって構成された集合的無意識の悪意と見える力が<うずまき>の正体であろう。もっとも、集合的無意識に善意も悪意もないのだが、人間の煩悩(あるいは賢しらな分別)が善と悪の区別を生み出してしまうのだ。(元型論と集合的無意識は、ユングの『元型論』〈紀伊国屋書店〉を参考にしている。)