「鎮魂 さらば、愛しの山口組」盛力健児著(宝島社、'13.9.13)―山口組の変質も時代の流れに沿う

山口組若頭宅見勝暗殺事件については、今まで木村勝美の『山口組若頭暗殺事件』(イースト・プレス、'02.3.9)でおおよその真相をを把握していたつもりだったが、本書を読み、事件の深層に別の様相が現れるのが見えて興味深かった。

 事件の底流にあるのは、渡辺五代目および宅見若頭の体制になってからの山口組の拝金主義への変質である。それはあたかも、日本の資本主義のいびつな流れと表裏一体をなす。山口組はまさに時代を写す鏡である。

 本書では、実力の差が歴然としていたにもかかわらず、会津小鉄一家がなぜ山口組最大の勢力を誇っていた中野会会長を襲撃したのかについて、従来京都の利権をめぐる争い云々と言われていたが、実は山口組が(中野襲撃を)了承しとったからですよ。あの散髪屋の(中野襲撃)事件は、宅見が会津にやらせよったんや。宅見が仕組んだんですよ。」という記述があり、やはりそうだったのかという感を強くした。

 木村勝美の前掲書でも、宅見襲撃の司令塔だった中野会若頭補佐の吉野和利の話として、「宅見のガキは、永中とつるみやがって、カネばかり溜め込んどる。」という言葉を紹介した後で「理髪店事件は、宅見がウラで糸を引き、中野会長を消そうとしたもの、と吉野はにがにがしげにいった。」と続けて、この中野襲撃は宅見勝と会津小鉄の共謀という見方を示している。(なお、永中とは、許永中のこと)

 なお、筆力、構成の巧みさ、目配りの広さ、などにおいて、木村勝美の作品に一日の長があり、ある種傑作と言えるが、宅見暗殺や五代目引退のクーデターなどの内幕暴露情報の目新しさにおいて、盛力の作品に多少なりアドヴァンテージがあるのも認めなければならないだろう。

 本書を一読して感じたのは、先ずかなりの部分が「アサヒ芸能」的な山口組の数々のエピソードの積み重ねで、ほとんどよく知られたことばかりであること、次に、記述に(当然と言えば当然だが)著者の盛力健児の自己正当化のためのバイアスが相当にかかっていることである。
 前者については、古い事件の細部が殊更詳しいことから推測できるように、本書の主要部分がゴーストライターと推測される西岡研介の手によるものと思えば肯けるし、後者については、多分著者が、極道として道を貫いたとする矜持が本書の主要なトーンとなっていることで、著者の強い意志の反映と見ることができよう。

 ちなみに、本人の回想のように見せて、実は編者と称するライターが執筆した作品では、ソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』が有名である。この書は、絶えず<偽書>との疑惑につきまとわれている。
 盛力のこの書も、本人の言葉遣いで書かれているが、実は西岡研介が書いたとしても、目くじらを立てるほどでもあるまい。当然、盛力の意向が十分反映されているであろうし、またきちんと本人が内容を確認しているだろうから。
 もっとも、本書とヴォルコフの書とでは、著者の存在の巨大さ、歴史上の事実としての深刻さにおいて天と地ほどの違いがあり、比較するのさえ笑止であろう。

 本書で、今まで曖昧にしか見えなかった事柄の真相が少しはっきりしたような気がする。ただし、山口組奥の院で行われた六代目誕生(クーデター)の内幕をこのように明確に著者が知りうる立場にいたかどうかが不可解といえば不可解。そのとき著者は、中国の青島にいたことを本書でも述べている。多分、本部の暗黙の了解のもとに、どこからか情報提供があったのではないかと推測される。

 本書によれば、五代目(渡辺)は中野が宅見を殺すのをどこかの時点で”了承”しており、弘道会はその証拠を掴んでいた。そして弘道会出身の若頭の司忍は、その(五代目による)”子殺し”の証拠を五代目につきつけた後、入江禎(二代目宅見組)の方に向き直って「親の仇は取らなあかん!」と言った。この司の一言で決着がついた。(つまりクーデターが成立した。)著者は、入江のこのときの立場が、このクーデターの「大義」、つまり禅譲の正統性を保証したものだと述べている。その論功行賞として、六代目体制で、入江が取りたてられていくというのである。この辺はさすが長年極道社会のメシを食ってきただけの著者の分析力が光る。「大義」(正統性)がなければ誰も新しい組織のトップとして君臨できず、組織が組織として成り立たないことをよく知悉している。極道社会とても武力(実力)だけで成立している訳ではないのだ。

 こうした権力闘争は、極道社会でも政治の世界でも、企業の世界でも同質である。例えば、鳩山一郎吉田茂、あるいは田中角栄福田赳夫の確執、三越の岡田社長追放劇、などがすぐに思い浮かぶ。

 しかしまあ、こうした極道社会の内幕について興味を抱く者もそうはいないだろう。私はたまたまバブルの最盛期に不動産業を経営し、それもかなり手を広げて、いわば「行け行けどんどん」という状況にあったので、裏社会との境界線に近づくこともあった。いや、こちらが近づくというよりは、むしろ向こうの世界が近づいてきたのである。私はこうした経験を踏まえ、本書に描かれた世界の動きも多少は理解はできるのだが、多くの国民にとっては全くな無縁な世界であろう。

 しかし、暴対法の成立と社会や国民の意識の変化により、本書に描かれたような極道世界の姿は過去のものになりつつある。その転換点となったのが、まさに山口組若頭暗殺事件なのであった。