「国の死に方」片山杜秀著(新潮新書、'12.12.20)―ゴジラで考える

そろそろ日本という国の死に方を考える時期にきたのか。

 本書は、2011年3月11日の東日本大震災のエピソードから始まっている。
 その時私は、職場である病院の1階の事務室にいて激しい揺れに遭遇し、思わず傍の壁に手をついて身体を支えた。その日の15時頃、病院内で誤嚥(ごえん)により倒れた患者を総合病院へ送って、最終的に夜中の12時過ぎまでその病院に残って対応に追われ、その後患者の家族や医師を自宅などへ送り、午前2時頃帰宅したという忘れられない記憶がある。自宅へ戻ると、本棚が2本倒れていて本や資料が、また倒れなかった本棚の上に山のように載せていた本もみな部屋中に散乱していて足の踏み場もない有様だった。

 テレビで福島の地震津波、そして原発の惨状の映像が次々と送られてくるのを見て、”ああ、自分が生きている間にこのような地獄の光景は見たくなかった”という強い感懐に襲われた。
 ドイツから春休みで帰国していた娘が、その時刻に都区内へ出かけていてしばらく連絡が途絶え、おろおろしたことを覚えている。

 その年の10月5日に、夜行バスで石巻を訪れて、大学時代の親友の案内で被災地の惨状を目の当たりにし、その思いを一層強くし、”ああ、日本はこれで終わるのか”という考えが度々頭をよぎった。
 こういう時代に『国の死に方』とは、著者はまことに時宜にかなったタイトルをつけたものだ。

 音楽評論家としての著者は知っていた。その小気味のいい文章に快哉を叫んだ記憶がある。
 著者の思想史研究家としての本はこれが初めてだったが、やはり小気味が良い。歴史的エピソードの包丁裁きが巧みで、語り口が上手い。

 国の死に方でいう「国」の骨格部分は<政治権力>である。それが専制君主制であれ、民主制であれ、一党独裁であれ、軍事独裁であれ、ファシズムであれ同じである。そして政治権力は<正統性>で担保される。

 正統性が問われるのは、世襲であれ、禅譲であれ、簒奪であれ、何らかの選挙であれ、武力であれ、である。ただし、武力は全面制圧がもっとも正統性が高く、テロやクーデターは脆弱である。

 戦後世界のレジームは、国連を始めとして、連合国(勝者)と枢軸国(敗者)とで截然と分けられているが、たとえば中国が日本に対して戦勝者のごとく振る舞うのは著しく正統性に欠ける。なぜなら、第二次大戦の勝者は現在の中国共産党政権ではなく、蒋介石の国民党政権だからだ。 
 しかし中国の、いわゆる易姓革命の政治思想から言えば、中共政権も夏・殷・周から連綿として続く政体の一つだから、改めて正統性を問われるのは心外かも知れない。易姓革命で王朝をつなぐキーワードは「徳」である・・・これはほとんどブラックジョークである。しかし中国の代々の政権の実態は銃口から政権が生まれる」(『毛沢東語録』)と言われる武断主義である。
 この本来はパルチザンの戦術思想であったものを、政権樹立後の現在までも国是としているのが異形の大国中国であり、この国の傍若無人さと薄気味悪さはその辺からくるのだろう。また、人民解放軍が、未だに国家の正規軍ではなく、八路軍の延長上にある共産党の軍隊であるということにも原因があるのかも知れない。

 この本は、実に巧みに構成されている。まず<序章 民族のトラウマ>だが、3.11を引き合いに出して、緊急地震速報のチャイム音の作り手が伊福部達(とおる)と紹介し、絶妙な呼吸で「音楽家ではない。」と話を落とす。
 続けて、伊福部達の叔父が作曲家の伊福部昭だと種明かしをした上で、昭の映画音楽の代表作ゴジラへと話が繋がっていく。
 ゴジラは、序章で登場した後、最終の<十四章 そんなに国を死なせたいのか>の掉尾を飾り、この論文が締めくくられる。いわば、ゴジラは本書を通底しているシンボル的存在だ。

 著者は第1章で<権力は低きに流れる>という権力構造の宿痾から説き起こし、鎌倉幕府の執権や内管領室町幕府管領やその部下のような存在(三好長慶松永久秀)に権力が下降していく様子を述べる。
 更に、複雑化した近代国家では、権力者は役人や専門家集団に何もかも任せ、決定を追認してゆくことくらいしかできない。・・・畢竟、権力者は有名無実化してゆく。権力は権力者の手を離れ、どんどん下降し分散する。権力者の個性は、官僚制の行き渡った巨大組織社会の複雑怪奇なメカニズムの中にすっかり埋没してしまう、と分析する。

 そこで、権力の上層部を空洞化させないため、ヒトラースターリン天皇親政下の日本が考え出した、意図的に国家を麻痺させるという手法について述べ、それを「無秩序の計画的な創出」と呼んだハンナ・アレントの言葉を引く。
 ヒトラー「ナチの党組織と政府組織を細かく割って不効率にしか機能しないように入り組ませ、統治機構をカオス化することで、大きくまとまった実権が下部組織に備わらないように腐心し、トップの裁量権を広げていった。」
 スターリン共産党の最高指導部の有名無実化を恐れ、「下のどこかの部局が目立ってくると、いきなり潰してしまう。いわゆる粛清である。ある部局ごと、突然消滅させる。あるいは人間を大幅に入れ替える。」ことをした。
 日本は、明治維新後、第二の徳川幕府足利尊氏の出現を恐れ、天皇親政の建前の下、最初からなるべく権力機構を細分化し、タテ割りとして、タコツボ的世界とさせることにして、天下の英雄や梟雄が出現して全天下を握らないように工夫した。その工夫の産物が明治憲法である。

 これらの仕掛けは、反面国を滅ぼす仕掛けともなっており、ヒトラー第三帝国スターリンのソヴィエト共産党政権、明治憲法下の天皇親政の日本のいずれも滅亡している
 著者はこれらの仕掛の有りようを次のように表現している。
1 ヒトラー:国家をわざと麻痺させる。極限まで組織を増殖させ分散させ続けた。
2 スターリン:上意下達の徹底と崩壊。
3 日本:護憲思想栄えて国滅ぶ。(権力者の生まれえない構造―明治憲法という自爆装置)

 第6章からは論点を変え、国防のための保険数学として、藤澤利喜太郎の「生命保険論」について述べ、それと結びつけて関東大震災朝鮮人虐殺」に筆が及び、それ以降の近代日本史―普通選挙二・二六事件」「植民地の朝鮮を巻き込んだ米増産計画と米政策の破綻」と手際良く論を進めていき、敗戦に至ってゴジラ論に辿りつく。

 著者は、利益社会だけしかない戦後の日本国家は犠牲の論理が不在であると指摘し、その空白を正面から主題にしたのが東宝映画ゴジラ(1954年制作・公開)だという。この作品が観客に突きつける犠牲のかたちは、島の古老の語るゴジラの災厄から免れるための人間の生贄(いけにえ)と、ゴジラの退治のために犠牲を厭わぬ民間のボランティアの科学者の勇気である。後者は、平田昭彦が演ずる芹沢博士で、彼は自分が開発したオキシジェン・デストロイヤー(水中酸素破壊剤)という究極の兵器を携えてゴジラと心中する。それは、将来この兵器が悪用されることを恐れ、禍根を断つために自らの命を犠牲にするためであった。

 本書に啓発され、TSUTAYAでこの作品を借りて数十年ぶりに観賞した。前に観たのは中学生のころだから、今回ほとんど初めて観るに等しかった。後年次々と作られる怪獣映画と異なり、怪獣(ゴジラ)に人間的な妙な思い入れは全くなく、見事に凶暴で無慈悲な怪獣に仕上がっている。しかし、プロデューサー田中友幸に原作を依頼された香山滋が、ラストでゴジラが、オキシジェン・デストロイヤーで溶け死ぬシーンを見て哀れで泣いたというエピソードを聞くと、やはりこのようなゴジラでも思い入れを抱く人もいるのだと思い、素直に納得してしまう。原作者の香山には、非情なゴジラも、考えてみれば、水爆実験という神をも恐れぬ人間の所業のせいで安住の場所を追われた哀れな存在であることが、痛いほど分っていたのであろう。

 著者は「どこをどう探しても犠牲社会の論理はでてこない」と嘆き、「科学者はあくまで自発的に犠牲役を買って出て、ゴジラと壮絶な心中を遂げるのである。」と言う。
 そして「いつまで経っても芹沢博士の出てこないもうひとつの『ゴジラ』が福島の物語だと言ってもよい。」と続けるが、このとき著者の念頭に、福島第一原子力発電所の所長吉田昌郎とその部下たちの姿が浮かばなかったのだろうか。彼らは自己犠牲を厭わず、日本国家を滅亡の淵から救った人々であった。

 3.11のとき、消防士や学校の先生など、一身の危険をかえりみず人々を救おうとした人々のいたことが記録にある。
 著者が言うように「犠牲社会と縁を切った国、どんな苛酷な事態に至っても誰ひとりにも捨て身の対応を命じられない国、・・・。」ではなく、<犠牲を厭わなかった多くの市井の人々、苛酷な事態に捨て身で対応した人々を掬いあげることのできない社会と国>と言い換えたらどうか。