「狂人日記」色川武大著(講談社文芸文庫:'04'9.10)―襟を正して読む

この作品の主人公がまとっている狂気の正体は一体何であろう。著者にダブらせて<ナルコレプシー>と言いたいところだが、これは違うだろう。主人公が見る幻覚は、この病気特有の入眠時幻覚などという生やさしいものではない。
 また、この小説で唯一、医師の口から<パラノイア>という病名が出てくるが、医師も必ずしも自信をもって言っているのではない。むしろ<統合失調症>に近いようだが、断定するのは難しい。
 この作品で、著者が狂気を表現するときには、あれこれ個別の精神病にとらわれず、狂気と言う現象をトータルに捉えたものになっている。主人公が狂気にとらわれる時の著者の筆は極めて怜悧で、狂人である自分を見つめるもう一人の自分がいるようだ。

 そのことは、この作品の冒頭の著者による狂人の定義を読めば分かる。

「狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合いの差あり、また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。
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 不思議な病気で、細菌もおらず、傷口もなく、ただ患者の様子を眺め、その言動から察して判定するだけのことだ。しかもごく少数の完全な、乃至は概念的なものに当てはまる症状以外は度合いの問題であり、そこに個性が加わって千差万別になるのだから、ボクシングでいうTKO勝ち以外の判定のごとく、決定的な断はくだしにくい。」

 これは上述のように特定の精神病への言及ではなく、もっと総合的に狂気という現象を定義したものだ。従って、アメリカ精神医学会のDSM-4TR(精神障害の診断と統計の手引き)や、世界保健機構のICD-10(国際疾病分類)に載っているお仕着せの病名の枠内に無理にはめ込む必要はないだろう。むしろ、こうした全体的な狂気の在りようが、健常者であるはずのわれわれに対峙してくる姿を見つめればいいのだ。

 著者が紡ぎだす狂気の世界は、とりとめもなく捉え難い。われわれの理屈の勝った感覚では、何かを捉えたと思った次の瞬間には手の間をするりとすり抜けてしまう。
 この作品の分析が困難なことは、本書の佐伯一麦氏の解説を読めば分かる。
 ここでは、佐伯氏の経てきた転変の人生と重ね合わせて、『狂人日記』の他『怪しい来客簿』、『百』を始めとする色川氏の作品が語られる。それはそれで一つの作品のようで興味深くて面白いだが、しかし、この作品自体への迫り方としてはやや喰い足りない感じを受ける。これは作品自体が分析的に語り難いせいなのかもしれない。

 大まかな作品の構成はこうだ。前半では、精神科病院における主人公の病人生活が語られる。幻視・幻聴や時折訪れる発作、医師との対話、看護師への反応、他の患者とのやりとり。特に、寺西圭子という女性患者との関わりに次第にストーリーが収斂して行き、退院後の後半部分ではその圭子との二人での生活が始まる。しかし、二人の生活は次第に微妙な齟齬を来たし始め、ついに主人公は死を願うようになる。
 特に後半部分で主人公をたびたび襲うのは狂人の幻視・妄想というよりは、誰もが心が弱った時に見る”白昼夢”と言ったほうがいいだろう。主人公は「湯の中に居るとどこまでも退嬰していく。」と自らの生活をぬるま湯に浸った時の気分になぞらえ、「自分はわがままで身勝手で、病者というより欠陥者だ。」と断ずる。圭子の心も離れ始め、「死ぬよりほかに道はなし・・」と思い定め、食を断つ。
 このウジウジした救いのなさは、戦前の情痴小説といった趣がある。

 この二人を共同生活へと駆り立てた動機は明らかである。「一人では、やっぱり生きていかれない。他者が居ない分だけ、幻像が繁殖してくる。」
 愛し愛される、信じ信じられるという人間のふれあいを願望しながら、逆に次第に二人の間に距離が生じてくる。
 これは孤立して生きることを恐れながら、他人と心をかよわせることの不得手な現代人が、病人であるか健常者(と思い込んでいる多くの人々)であるかを問わず、共通して持っている痼疾のようなものである。
 そして、亡き園子という存在が、この作品全体に薄いベールのように覆いかぶさって、読む者に憐れを誘ってやまない。園子への強い想いが主人公の人生にひと際悲劇的な陰影を添えているように思える。

 この作品の中で、最も心を衝かれるのは園子について言及した部分だ。
「しかし、空間に、園子の顔が、まだ浮いている。口の中に体温計を含んだまま、弱々しい彼女の視線を浴びている。自分にとってたった一人の、女。野方の知り合いの寺に預けられたまま放置してある彼女の骨壷。
 焼き場の窯にガスが点火されたときの一瞬。」

 この骨壷という言葉に、主人公の万感の思いが込められている。今でも主人公の心をこわしつづけているのはこの骨壷なのではあるまいか?

 焼場で棺の蓋を開けて最後のお別れをして釜の中に棺が入った時に後ろに立った男に気づき、外に出した後、
「自分は罰を受けていると感じた。事の次第は呑み込めないが、すべて自分のせいだ。とうとう妻と一体になれなかった。妻に裏切られたという気持ちは、むしろ軽くて、うすら笑いでごまかしてしまえるように思えた。
 自分は誰とも一体になれないのか。人と一体になるにはどうすればよいのか。
 園子と同じ墓に、自分は入れるのか」

 私はこの作品を二度続けて読んだ。一度目はさっと通読し、二度目はじっくりと味読した。ここに語られる一人の男の人生は、当たり前に考えれば失敗の人生と言える。しかし、それなら、このように人の心の中を顕微鏡のような眼で仔細に見つめていけば、ほとんどの人生は失敗の人生と言えなくもない。かく言う私自身も含めて。
 人生を生き抜いて来て、償わなければならぬものが次第に大きくなり、ついにそれに堪えられなくなると人は狂う。

 狂人や精神病院について書かれた文学作品には次のようなものがある。その多く(チェホフと魯迅以外)は、自己の狂疾に苦しみながら人生を送った作家によるもので、それらの作品にはまさに鬼気迫るものがある。
 ガルシン『赤い花』、チェホフの『六号病室』ゴーゴリ魯迅による、色川のこの作品と同じ題の狂人日記ストリンドベリ『債鬼』、ゲオルグビューヒナー『レンツ』芥川龍之介『歯車』など。