時代小説の楽しみ(1) 霊験お初捕物控「震える岩」宮部みゆき(講談社文庫、'97.9.15)−主人公お初の”凛々しい健気さ”が心を打つ

 子供の頃から時代小説の虜になって今に至っている。小学校に上がるかどうかの頃、戦時中から戦後しばらくにかけて、本職の表具師の仕事が無くなった父親が臨時に就いた仕事が、県立図書館の児童部門の職員であった。多分親しくしていた県議の紹介ででもあったのだろう。その間、図書館で不要になった本をしばしば家に持って帰ってきてくれたが、その中に多くの時代小説があり、繰り返し貪るように読みふけったものだ。記憶にあるのは、「笹野権三郎」「源平盛衰記」「国定忠次子母沢寛)」などである。他には「芥川龍之介童話集」「トルストイ民話集」「アンデルセン童話集」(これは改造社の挿絵入りのもので、<雪の女王>が入っていた)

 小中学生の頃は、戦後全盛であった貸本屋から本を借りて読むのは当時最も大きな楽しみだった。高垣瞳の「怪傑黒頭巾」や、角田喜久雄の時代小説、講談社の「少年講談全集」もほとんど読破した。勿論、江戸川乱歩の「少年探偵団」のシリーズや、横溝正史の少年向け作品、雑誌では、「譚海」や「講談倶楽部」、「漫画少年」や「少年画報」なども愛読した。「少年倶楽部」は親にせがんで定期購読したものである。

 中学、高校では図書館を利用して(貸し出しを受けて)、主に河出書房の「大衆文学代表作全集」で、富田常雄の「姿三四郎」、吉川英治の「鳴門秘帳」、三上於莵吉の「雪の丞変化」、川口松太郎の「蛇姫様」、土師清二の「砂絵呪縛」、そして何と言っても最高に面白かった本である白井喬二の「富士に立つ影」(これは河出書房の「日本国民文学全集」)などを貪り読んだものである。そして大衆文学名作選で読んだ大仏次郎の「照る日曇る日」。
「富士に立つ影」は未だに私の人生で最高に面白かった本の第1位を譲らない。残りの頁が少なくなっていくのがこんなに惜しかった思いをした本は他にない。(最近、スーパー源氏の古本リストの中に、日本国民文学全集の「富士に立つ影」上中下を見つけ、懐かしくて注文した。到着が楽しみである。)

 以後は、岡本綺堂の「半七捕物帳」全巻、久生十蘭の「顎十郎捕物帳」、池波正太郎の「鬼平犯科帳」と「剣客商売の」全巻、平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズ、他は宇江佐真理白石一郎の「十時半睡事件帖」シリーズ、佐藤雅美の「物書同心居眠り紋蔵」シリーズなど、隆慶一郎著作のほとんど、司馬遼太郎著作のほとんど、松本清張の伝奇小説(「西海道談綺」など)等を読破してきた。

 宮部みゆきについては、「理由」や「火車」や「龍は眠る」などの現代作品は、不動産(「理由」)や金融(「火車」)などの経済問題の扱いに、著者に実際の経験がないせいか、既成観念にとらわれていて犯行の動機にやや不自然なところがあり、いまひとつ納得し切れなかった。しかし、「本所深川ふしぎ草紙」や「幻色江戸ごよみ」などの時代小説にはただ感嘆、脱帽するばかりであった。「震える岩」も同じである。しばらく宮部みゆきの作品から遠ざかっていたが、最近精力的に話題作を次々と発表しているので、もういちど主に時代小説を中心に読み直してみようと考え、まず、「かまいたち」と「震える岩」から読み始めることにした次第である。

さて「震える岩」だが、下敷きになっているのは長年江戸町奉行を勤めた根岸肥前守鎮衛(やすもり)の随筆「耳袋」の中の<奇石鳴動の事>である。これは、松の廊下の刃傷後、浅野内匠守がお預けになった陸奥一関藩の芝愛宕下の田村邸の庭上の切腹跡に置いた大石がが鳴動したという逸話で、本書の扉に引用されている。また本書では根岸肥前守自身もお初の庇護者として重要な役回りを演じている。
 主人公のお初は超能力(霊感)の持ち主で、周りを取り囲む兄の目明し六蔵や鬼与力古沢武佐衛門の息子の優男の右京之介、などの魅力ある人物像が丁寧に描かれている。
 お初の人間像は、宮部みゆきの時代小説の出発点になった「かまいたち」の主人公の町医者の娘およう と重なっている。「かまいたち」の笹川吉晴氏の解説にあるおようの人物像”凛々しい健気さ”はお初にも共通しているように思える。彼女らが身の危険を顧みず犯人に立ち向う姿には本当にほれぼれする。

霊験お初は、「かまいたち」の中の二つの作品『迷い鳩』と『騒ぐ刀』に登場する。どちらかと言えば、こちらの短編の方が緊密で破綻がない仕上がりとなっている。「震える岩」はかなり欲張った筋立てで、二重底のような仕掛けが施されていて、その凝った複雑な仕掛けが、僅かに破綻を感じさせる。しかしそれを補って余りあるのは、作者の志の高さ、登場人物に寄せる作者の暖かな眼差し、そしてなによりもお初の”凛々しい健気さ”であり、結末も読者を納得させ、安堵させるものになっている。
 短編二作には登場しているお初の次兄の直次が「震える岩」にはなぜか登場しない。直次は短編では魅力的で重要な役を担っている。まあ、あまり詮索してもしょうがないか。

続けて霊験お初捕物控<2>である「天狗風」を読んでみた。(こちらは初読)この作品は、一言で言えばアニメ映画のような出来映えになっていて、「震える岩」に比べると少々粗っぽい感じがする。大立ち回りが目立ち、またオカルト的な要素も一段と強くなり、いささか辟易しないでもない。しかし、魔物の正体である<女性の怨念>の根深さ、悲しさの描き方は、さすがと思わせる。これは絶対に男性作家には描けないものだ。大団円へ向かって物語を畳み込んで行く非凡な筆力と曖昧さのない明快な文体は宮部作品すべてに共通しており、水準の高い作品を次々と書き続けるストーリーテラーとしての才能と情熱溢れる作家魂には心から脱帽である。