「俳句観賞450番勝負」(中村裕著、文春新書、07.7.20)は、面白うてやがて悲しき・・・

一読感じたのは、俳句は言葉では掬い上げられない世界を、言葉を用いて言葉の伝達機能を飛び超えた玄妙な働きで表現したものだ、ということである。となれば、勿論俳句を論理的な解説で捉え切ることはできない。俳句の解説を読んで、いつも隔靴掻痒の感を免れないのはそのためである。しかしこの中村氏の解説は、洒脱な中にもポエジーがあり、イメージの喚起力に富んでいて楽しい読み物となっている。
 長い間、山本健吉の「現代俳句」(角川文庫)を繰り返し読み親しんできたが、この書は久しぶりに俳句の面白さ、奥行きの深さを教えてくれた。毎夜、寝る前に少しずつ読み続けてきたが、実に楽しい読書であった。

 中村氏の俳句の掬い上げ方が巧みだ。季語ではなく、人間の生の営みとその発露、またそれに関わってくる自然や社会の仕組み毎に分類した項目で多くの俳句を、玉石混交を怖れずに拾い上げている。ややもすれば、定評ある名句を集めたアンソロジーが重苦しくなるのに比べて、こうした形式の方が俳句という詩形のもつ可能性が、また同時に限界もがよく見えるような気がする。

 私は、あまり熱心とは言えないものの、一応素人俳句愛好家の末席を汚す者として、この本を読んで得た感想(妄想?)を述べてみる。

 例えばこんな句がある。
 −見かけよりぬくきものなり頬被り  右城暮石
 このそっけない説明的なセンテンスを俳句にしているものは何か。普通なら、頬被りの説明でしかない。
 思ったのは、この説明文をして俳句であらしめるもの、それはカール・グスタフユング流に言えば、日本人が先天的に形成してきた無意識、つまり集合的無意識に存在する日本独特の五七五の血脈のリズムである。そうした父祖の代から連綿として繋がってきている日本独特の血脈のリズムからは和歌や俳句という日本独特の詩の形が現れてくる。

 また、次のような句も・・・。
 −生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣   橋本多佳子
 −衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く  桂 信子

 この二人の女流俳人の句には、ただ三嘆あるのみである。ここには、それぞれ異なった感性から、女性というものの存在の核心が表現されている。その表現は鮮やかに冴えわたる。
 前者は、女性なるがゆえに辿らざるを得なかった様々な苦難を、今ここに乗り越えてきているという矜持がひしひしと感じられる。そして藍染の糊のきいた浴衣から、くっきりとして立つ姿勢の強さと正しさが、強く心に迫ってくる。
 後者は女性の性(さが)の奥深い核心が読み込まれている。ここには、エロティシズムというよりは、むしろ日本という男系社会を支える母体としての女性の温もりが感じられ、また美しくも悲哀に満ちた女性の実存が浮かび上がってくる。 

 読み終えて、つくづく思ったのは、この短い詩形である俳句の限界であった。十七文字にいくら心血を注いで深遠な世界を表現しようとも、結局は手すさびでしかないのではないか、ということである。今まで作られてきた数知れぬ膨大な俳句で、ほぼ詩形としての俳句作法も趣向も尽くされてしまったのではないかという疑いに、と言って悪ければ不安に襲われる。

 もともと俳句=発句は、松尾芭蕉において、理論も実作も完結してしまっている。芭蕉を凌ぐ俳人は未だに誰もいない。俳句はほとんど工夫も尽き、これからはますます今までにない趣向を求めて苦心惨憺し、不自然・複雑・突飛という隘路にはまり込んでいっしまうのではないだろうか。また、俳句は、短いだけにアイデアが命という面があるのは否めない。しかしアイデアの工夫も限界で、新しいアイデアを求めるあまりに無理な技巧に走ってしまう危険がある。

 このような短詩形に命を削るほど打ち込んでいる人がかくも多く存在する(一説では100万人と言われるが、よく分からない)日本人という民族は何といじましい人種であろうか。しかし、今ではほとんど失われている日本独特の風土、季節の移ろいごとに微妙に変わる花鳥風月の有様を、日本固有の自然の美しさと儚さを、今でも短い詩形の中に掬い上げているのが俳句であろう。

 それにしても、日本の自然はいつからかくも無惨になったのであろう。その一つは大量の農薬使用に違いあるまい。私の幼少時には農薬などというものはなかった。米には穀蔵虫がいたし、葉物野菜は虫食いだらけ、便所は汲み取りで肥料供給源となり、夏の夜は大量の飛ぶ虫たちが蚊帳を吊った部屋に飛び込んでくるのだった。回虫のような寄生虫は当たり前、その代わり田にはイナゴやドジョウや田螺が多くいて、私たちの食卓に上ったものである。思えばまさに隔世の感がある。