松山へ飛び道後温泉本館で湯に浸り、そして『仰臥漫録』(正岡子規)を読む

9月12日、羽田発14時15分発の全日空機で松山へ飛ぶ。
 目的は、13、14日に開催される私の勤務する職場団体の「学術研修会」参加のためである。久しぶりによく晴れた涼しささえ感じる穏やかな日で、申し分ない快適なフライトであった。しかし松山に到着し、ブリッジを通って空港ターミナルに向かいかけると、ムッとする熱い空気が襲ってきて驚く。やはりここは南国の一角なのだ。

 夕方ホテルにチェックイン、早速道後温泉へ向かい、歴史的建造物で国の重要文化財でもある道後温泉本館で入浴する。「神の湯階下」という一番大衆的なコース(400円)を選ぶ。道後の湯はいわゆる源泉かけ流しで、湯質はレベルが高い。先般訪れた石和温泉と同じアルカリ性単純泉で、湯が皮膚にまとわって養分がジーンと沁み込んでくるような気がする。日頃の疲れが癒される思いがしてまことに快適そのものである。



 入浴後、温泉近くの寿司店で刺身と鯛のあら炊きと松山鮓(すし)を食べる。鯛とカンパチの刺身の旨さに感嘆。あら炊きは豪快な大きさ。
 帰りに書店で正岡子規の『仰臥漫録』と、夏目漱石の『坊っちゃん』(ともに「岩波文庫」)を買い求める。漱石は何度も読んでいるが、子規のこの本は今まで、最後まで読みとおしたことがない。

 13日は1日中研修で、5時に終わって、再び道後温泉本館へ行く。今回は奮発して「神の湯二階席」コース(800円)を選ぶ。浴衣が付き、浴後は二階の55畳の大広間で休息できる。お茶とせんべいが振舞われる。部屋の廊下側は窓もなく、手すりを除くほぼ全面が解放されていて涼しい風に当たる事が出来、人々が行き交う窓外の夜景も楽しめる。

 いったんホテルに戻ってから、大街道にある三越の裏手の小料理店で食事をする。カワハギ、地ダコ、ハモ、ウになどの刺身と鯛のあら炊きで飯を食う。瀬戸内海の魚の刺身は太平洋の魚に比べ、何とも言いようのない旨さ、小味に富む。鯛のあら炊は昨夜より小ぶりだったが、より繊細な味わいと深い滋味があり、ただただ感嘆するばかり。ご主人の話では、瀬戸内でも東側の方で獲れたものが旨いとのこと。いずれにしろ伊予に住まう人たちがなんとも羨ましい。
(上の写真は、鯛のあら炊き)

 翌日、午前中に研修が終わり、研修会場から路面電車で2つ目の道後温泉駅へ行き、松山市立子規記念博物館へ行く。松山城へは行く時間の余裕がないので、帰りの飛行機の時間を気にしながら、せめて子規記念博物館だけはと考えた。
 まことに立派な施設だが、訪問者は私の他は2組だけ。3年前に訪れたプラハカフカ記念館を思い出す。そこも訪れている人はまばらだった。所詮文学などに現代人はあまり関心はないのだ。(左下は全景、右下は子規と漱石ゆかりの「愚陀仏庵」)

 

  中にある書店で、『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』(すべて「岩波文庫」)を買い求める。家の本棚のどこかに後の2冊がある筈だが、記念なので買い求める。
 見学後2階の喫茶店でコーヒーを飲む。

 さて『仰臥漫録』だが、『病牀六尺』の上田三四二氏の解説によれば、「『仰臥漫録』のみは公表を期待しなかった内々の手控えで、期間も『墨汁一滴』と『病牀六尺』に重なっているが、他はいずれも『日本』にこの順に掲載され、・・・」という性格のものである。原本は昭和25年頃から行方不明となっていたが、平成13年5月子規の旧邸(東京都台東区根岸)「子規庵」の土蔵から見つかっている。その原本は芦屋市の「虚子記念文学館」に寄贈された。(下記の記事参照)

神戸新聞記事
神戸新聞記事(続)

 読み初めて先ず目につくのは、不治の病に苦しみながらも、眼を瞠るその食い意地の凄まじさである。朝昼晩と実に克明に食事の内容が記されていて、子規の食い物への執念に感嘆する。例えば”粥四椀”とか”菓子パン十個”とか”鰻の蒲焼七串”、あるいは”焼鰯十八尾”など。これが瀕死の病人の食欲かと驚く。しかも必ず直後に喰い過ぎで腹が張って苦しんだり、吐き返したりしている。便通と包帯の取り替えについても執拗に記録している。

 次に驚くのは、病床の子規のもとを訪れたり、便りを寄せたり、贈り物を届けてくる人物の多さである。勿論、新聞『日本』や俳句雑誌『ホトトギス』の関係者(短歌、俳句の弟子を含む)が多いのは当然であるが・・・。下記にその人物の一部を挙げてみる。(順不同、大部分が姓あるいは名のみ記されているが、ここでは姓名とも記してみる。)

 寒川鼠骨、五百木飄亭、陸羯南、本田種竹山人、佐藤肋骨、松瀬青々、角田竹冷、石井露月、伊藤左千夫内藤鳴雪佐藤紅緑長塚節、香取秀眞、牛伴(下村為山、)、古島一念(一雄)、坂本四方太、岡麓、木村芳雨、矢田挿雲、中村不折、つげ潮音、高浜虚子河東碧梧桐、蕨眞、福本日南、福田把栗、歌原蒼苔(子規のいとこ)、石動露子、佐藤三吉(医師)などなど。

 これだけ多彩な人物たちがひっきりなしに死の床に横たわる重病人を訪れ、その多くが果物などの食べ物を土産として持参してくることに驚く。みな子規の食い意地の張り具合を知ってのことだろう。

 また、『病牀六尺』などにも記述が見られるが、ここには激しく襲ってくる病気の強烈な痛みに苦悶する子規の絶叫と絶望があけすけに語られている。怖ろしいまでに人間的である。これもこの記録が公表を前提としなかったためであろうか。『松蘿玉液』に読みとれるようなわずかな気どりや自己顕示欲らしきものは全く影をひそめて、ただただ生き物としての人間の生存の基底部の在りようを必死に書きとめているのが何とも悲痛である。
 例えば、
「呼吸苦しく心臓鼓動強く眠られず 煩悶を極む」(明治卅四年九月二日)
「紅緑来る 午前十一時頃苦しみ泣く」(九月八日)
「腹痛いよいよ烈しく苦痛堪へがたし この間下痢水射三度ばかりあり 絶叫号泣」(九月十四日)
「朝雨戸をあけしむるよりまた激昂す 叫びもがき泣きいよいよ異常を呈す」(十月六日)

 十月十三日、律も母親も出かけて子規ひとりになった時、ついというか、小刀と千枚通しの錐を目にして自殺念慮が頭をもたげてくる。小刀で喉を掻き切るか錐で心臓に穴をあければ死ぬに相違ないと煩悶する様子が克明に描かれる。凶器のスケッチまで添えて。

 そして重病人子規の看病に専心する妹律に対する愛憎表現の烈日のごとき厳しさ、これはまさにアンビバレンツの極致だ。食事の仕度、下の世話、包帯の取り換え、客の応対、雑用を黙々とこなす律へ向かって、「理詰めの女なり 同感同情なき木石の如き女なり」「強情なり」「冷淡なり」などと悪口雑言を述べたてるが、「もし余が病後彼なかりせば余は今頃如何にしてあるべきか」などと言葉を尽くしてその看病の絶対的献身ぶりに頭を垂れる。しかしその舌の根も乾かぬうちに、「彼は癇癪持ちなり 強情なり 気が利かぬなり 人に物問うことが嫌いなり・・」とその欠点を並べ立てる。その実その言葉は子規の律に対する愛情の裏返しであり、兄妹が囚われている如何ともし難い宿命への絶望感がひしひしと伝わってくる。実際子規は、律なかりせば一日たりとも生きていくことができないことを骨の髄まで悟っているのである。子規も律も何とも哀れで、涙なくしては読めない。この書の最も読む者の心を揺さぶってやまぬ個所である。

 ”仰臥漫録二”では、病気の苦しみの他に、お金の苦心が加わってくる。ついには、虚子から返す当てもなく二十円借りる場面が出てくる。
 食事の内容と痛みの様子が重なるようにして語られ、一種異様な生活状況(あるいは心理状態)が明らかになる。それにしても食べ物に対する妄執とも言うべき執着は驚くばかりである。また、苦しみを緩和するための麻痺剤(麻薬類か?)も服用する記述がしばしば出てくる。
 その後は子規が書きとめた大量の短歌と俳句が集録され、そしてこの書が終わる。
  
 帰りの便を空席待ちする松山空港で、この書を大いなる感謝の気持ちをもって読み終えた。あらためて子規は巨人だな、という思いを強くした。
 松山ゆかりの二人の偉大な文学者、漱石と子規は、明治以降の日本近・現代文学の偉大な十人には必ず入る人物である。(あとは誰かって、まあ谷崎潤一郎川端康成斎藤茂吉芥川龍之介は確実だが、他はよく分からない。そもそ十人というのもあまり意味がない。ただ私の中では、三島由紀夫大江健三郎村上春樹は除外される。)