「世界恐慌の足音が聞こえる」榊原英資著(中央公論新社、11.9.25)―さて、どんな足音が聞こえるか?

著者は、10月4日号の<日刊ゲンダイ>で、ポール・クルーグマンの「1870年型の大不況が始まった」という言葉を引用し、当時の背景に、物価の下落、産業構造の変革、英国の衰退と米国の勃興があったとして、今の状況との類似を指摘する。勿論、今の状況の背景としては、上記の英国は欧米に、米国は中国・インドを中心としたアジアに置き換えなければならないが。
 そして、「今、欧米とアジアとの間では大きなパラダイムシフトが起こっています。つまり、中国やインドなどが台頭し、欧米が没落していくのです。こういう時期にはしばしば、戦争や恐慌が起こってきました。戦争の危険はないにしても恐慌の可能性は少なくないでしょう」と結んでいる。

 さて、榊原英資氏の著書「世界恐慌の足音が聞こえる」では、著者は3人の有力な学者たちの視点を柱としているようだ。一つは、ウォーラーステインの西欧中心の歴史学を徹底的に否定し、中国・インドこそが長い間経済の中心であり、それが最近になって戻ってきただけとする『リオリエント』の著者のアンドレ・グンダー・フランクの視点である。二つ目は<アメリカの金融大崩壊>の章では、ほとんどその見方を借りている水野和夫氏の唱える「無極化」という視点、即ちドル体制の緩やかな崩壊の中で、世界経済や国家金融の「極」が次第になくなっていくという見方、そしてもう一つは、1930〜31年の恐慌の原因が、イギリスからアメリカへの世界経済のヘゲモニーの移動がスムースにいかなかったためとし、今回もそれに似た、いや、それ以上のことも起こる可能性があると主張するC.P.キンドルバーガーの視点である。
 この本はほぼこの三つの視点を中心に書かれているといって過言ではない。とくに水野和夫氏の本からの度重なる引用は、彼の論説にやや寄りかかり過ぎているという印象さえ受ける。(それでは、水野氏の著作を直接読んだ方が良いことになってしまう?)

 著者は、明らかに一つの時代、それも、数百年近く続いた時代が終わりつつある、という前提に立ち、世界は、今、かなり難しい局面に入ってきており、長期停滞→格差拡大→エネルギー・食糧価格の高騰と、危機は次第に強まってきているように思えるとし、1930年〜31年の大恐慌とは異なっているが、ある種の「恐慌」が近づいてきているのではないかと言う。これが著者の結論である。
 数百年近く続いた時代とは資本主義の続いた期間を指す。著者は近代資本主義の成立についての諸説を紹介した上で、1648年のウェストファリア条約で30年戦争が終結して西欧中世は終わり、これを契機に次々と国民国家が立ちあがっていった経緯から、ここを一区切りとして始まる時代を、数百年続く近代資本主義の嚆矢であるとする。
 
 この書は、詳細なデータが駆使されていて(古巣の財務省の若い役人たちが協力したのかもしれない)、資本主義の歴史をおさらいするのには便利であるが、教科書的でやや平板のそしりを免れない。
 また、映画「インサイド・ジョブ」のような人間像のドストエフスキー的な掘り下げ方がなく、ごくありきたりの解説となっていて物足りない。
 例えば、ティモシー・ガイトナーについては、「大変な紳士でソフトタッチの敵をつくらない際手優秀なテノクラート」と高く評価し、著者がG7蔵相代理の会合などで一緒に仕事をしたこと、たまに自宅に電話をもらったことなど、極めて好意的に紹介している。
 しかし、「インサイド・ジョブ」でのガイトナーの実像とあまりに違いすぎる。映画によれば、彼は金融危機の時にニューヨーク連銀総裁の職にあり、ゴールドマン・サックスCDSを全額貰えるよう指示した人物と言われている。
 オバマ政権の財務長官就任に際しては社会保障関係の税金未納が指摘され、就任してからもAIGの賞与問題で非難され、議会や世論からたびたび辞職の圧力をかけられる始末。存在感も希薄で、オバマ政権の経済のかじ取り役としても毀誉褒貶の多い人物である。

 もう一つ言えば、最近「恐慌」という言葉がいたるところで踊っているが、<日刊ゲンダイ>に現在掲載中の特集”どうなる世界恐慌日本沈没”の第4回で(榊原氏は第1回だった)、熊野英生氏(第一生命経済研究所主席エコノミスト)は「『恐慌』と言う言葉はあくまでイメージですが、現実になる恐れは十分にあるのです」と述べている。この”イメージ”という表現がが現在氾濫している「恐慌」という言葉の実際の意味合いと見ていいだろう。もともと「恐慌」とはマルクス経済学の景気循環説の中に位置づけられてきた概念で、例えば古い岩波小辞典の<経済学>の「恐慌」の説明では「資本主義的生産における無制限な生産衝動と、大衆の窮乏化との矛盾こそ、過剰生産恐慌の原因である。恐慌はこの矛盾の爆発であるとともに、その一時的な解決でもある。・・・恐慌は周期性をもって循環する」とある。一方、宇野弘蔵氏は『経済原論』の中で「恐慌をともなう景気循環の過程も原理的に明らかにされなければ、その必然性をいうわけにはゆかないが、実際上は常に不純の要素とともにあらわれるのであって、その抽象的規定は極めて困難である」と言い、古典的なマルクス経済学の「恐慌論」とは一線を画しているように見える。

 現在取りざたされている「恐慌」は、ギリシャのデフォルトが、いわゆるPIIGSと言われるイタリアやスペインなどの国々に波及し、ついには世界規模の不況に突入するという経済現象を指していると思われる。古典的な生産不況ではなくて、ソブリンリスクにともなう大金融危機(信用不安)のことを言っているのである。とすれば、榊原氏のいうように、こうした「恐慌」に襲われる恐れは多分にあるかもしれない。とは言っても、現在の経済学的知見が、今まであまり的中したためしはないので、ここで不可知論の罠に陥ってしまいそうだ。

 これ以上この本については論評しないが、最後に、著者は「日本は成熟社会のキーコンセプトである環境、安全、健康のいずれでも世界のトップ、あるいはトップクラスの実績を誇っているのです。・・・成熟国家として世界の先頭を走っている日本は、この点で世界のリーダーシップをとって、世界の『日本化』に努めて行くべきなのでしょう」と、ブラック・ジョークではあるまいが、著者自身も決して信じているとも思われない希望的な言葉で結んでいるのが印象的であった。