「死ぬことと見つけたり」上下、隆慶一郎(新潮文庫)−伝奇小説の系譜

書棚にあった本書を、何気なしに手にとって読み始めた。読むのはこれで3回目になる。細部の記憶は薄れていたが、読み始めると物語の状景が呼びさまされるとともに、あらためてその面白さに引きこまれ、一気に読了した。隆慶一郎は、山本周五郎司馬遼太郎池波正太郎に次いで愛読してきた作家だが、隆の作品では未完ながらもこの作品が一番面白い。(『影武者徳川家康』よりも出来がいい。)登場人物を描く著者の筆致にも気合いのようなものを感じる。
 また、龍造寺隆信の死後、佐賀藩鍋島直茂禅譲された直後の時代が背景になっていて、これについて書かれた小説が案外少ないところから、大いに興味をそそられる。
『知性の限界』(2)に進む前にちょっと寄り道をしてみたい。

 この作品のキモは佐賀藩の、いわゆる葉隠武士の死生観である。主人公の一人の斎藤杢之助は、具体的に死を観ずることを日課とし、死人(しびと)となって生きる葉隠武士である。彼は、『葉隠聞書』第十一の「必死の観念、一日仕限に成(なす)べし。毎朝、身心を静め、弓・鉄砲・鑓・太刀にてずたずたに成、大浪に打取られ、大火の中に飛入、雷電に打ひしがれ、大地震にてゆり込れ、数千丈のほき(*)に飛込、病死・頓死の死期の心を観念し、毎朝懈怠なく死て置べし。古老の云、「軒を出れば死人の中、門を出れば敵を見る。」と也。用心の事にあらず、前方(まへかた)に死て置也。」を毎日実践している。(*「ほき」は「崖」の意)
 この原文は、孝白本系の餅木鍋島家本(国立国会図書館蔵)を底本とした『日本思想体系』(岩波書店)の校注によったが、『日本の名著』(中央公論社)の現代語訳ではこうなる。(こちらは孝白本系の栗原荒野蔵本が底本)

「必死の観念は、一日ごとに仕切ることだ。毎朝身心をしずめたのち、弓・鉄砲・槍・太刀さきでずたずたにされ、大浪に巻きこまれ、大火のなかに飛びこみ、雷電に打ちひしがれ、大地震にゆり動かされ、数千丈の崖から飛び下り、病死・頓死などのときの死期の心を想い、毎朝おこたらずに死んでおくとよい。古老の言に、「軒を出れば死人なり、中門を出れば敵が待つ」ということがある。用心をせよというのではない、その前に死んでおけという意味である。」奈良本辰也、駒敏郎訳)

 余計なことだが、訳の中で「中門」とあるのはおかしい。「中門」とは寝殿造りで表門と寝殿との間の門のことであり、明らかにこのセンテンスの文意と合わない。前記の原文どおり「門」でいいのではないか。もしかして、原文の「・・死人の中、門を出れば・・」の“中”と”門”をくっつけて訳したのではないのかと邪推してしまう。中公本が底本にした栗原荒野の『校註葉隠』でも「中門」という言葉は出てこない。。
 なお、栗原荒野の『校註葉隠』は、webサイト「佐賀県立図書館データベース」で全文を読むことができる。ちなみに素人目では、日本思想体系よりはこちらの方が合理的な校註に思われ、日本語文としては比較的読みやすい。
 校註葉隠

 死人という着想を一体著者はどこで得たのだろう。これについて少し考えてみたい。
解説で、縄田一男ボーヴォワールの『人はすべて死す』からの影響をそれとなく示唆しているが、それはないだろう。
 ボーヴォワールのこの奇想天外な物語は、14世紀イタリアのカルモナ(架空の都市か?)の実権を握ったレイモン・フォスカという男が、ジェノワ人による都市包囲の中で、この都市の代々の実権者が暗殺などで次々と斃れていった過去の例から免れるため、薦められてエジプト産の不死の薬を飲んで不死の人となる、という設定で始まる。

 斎藤杢之助はいわば日々「死んだ人」(即ち、死んでもいい人)であり、フォスカは永遠に「死なない人」(即ち、死にたくない人)である。その、人としての在りようを求める心がけの根本からしてすでに大きく違っている。斎藤の死を観ずる心の在り方は至って東洋的である。中国の禅書などにその傾向が見て取れる。
 例えば、『碧巖録』第四十一則には次のようにある。(岩波文庫、朝比奈宗源訳註、中巻96〜97頁)
「須是大死一番。卻活始得。」(須らく大死一番して、卻って活して始めて得べし。)
 第四十一則には他に「大死底の人」という言葉も出てくるが、朝比奈宗源師は『禅語逍遥』で次のように述べている
「私達が一つの仕事を何とかやり抜きたい時には、心を奮い立たせるために気合いをかけますが、禅ではこの力を大死一番(先ず死んだつもりになる)といいます。「大死底の人」というのは、この大死一番を決心した時の人を言います。これは肉体的に死を覚悟することではありません。それは懸命に自己を忘れ、両亡のように対立する意識などを全部捨て去り、只管無私に徹することが大切になります。この境地になった人は大死底の人なのです。」

 しかし、斎藤杢之助は、中国禅の「大死底の人」とも少し違う。彼のよりよく生きるための原理・要諦は肉体的な死の仮想体験だからだ。そしてその仮想がいつ現実になっても了とする意識訓練であり習慣づけなのである。これは、中国禅よりももっと先を行っていて、より過激である。これは禅に武士道が重なった、日本の封建社会における武士特有の在るべき姿であった。

 『武士道』の著者でもある新渡戸稲造は、1913年の11月の『中央公論』の「〈死〉の問題に対して」という論文の中で次のような死生観を披歴している。
「ただ、何にもない、当たり前のとおりにして死ぬる様は、これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変わらんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。」

 新渡戸の説明でようやく斎藤杢之助の心の在り方が胸に落ちる。新渡戸の語る南洲像は決して表面的には過激ではない。しかし、「死を見ること生の如く、生を見ること死の如く」という思想は人間としての修養の極致で、分っていてもその境地に達するのは至難の業である。西郷はさておき、斎藤の修養とは、父祖三代にわたる独特の鍛練法、すなわち、”朝目覚めると布団の中で、前述の方法で出来るだけこと細かに、かつ入念に死んでおく”という凄惨な習慣によって身につけたものであった。

 それで果して「不思議なことに、朝これをやっておくと、身も心もすっと軽くなって、一日がひどく楽になる。・・・死人に今更なんの憂い、なんの苦労があろうか。」となるのだろうか。こう言ってしまうと身も蓋もないが、いかにも非論理的で、疑似科学(あるいは、エセ心理学)めいている。どうやら劇画の世界との境界に踏み込んでしまったようだ。日本の時代小説には昔から、こうした傾向を強く持つ伝奇小説という伝統的ジャンルがある。

 伝奇小説は元々中国唐代の白話小説に由来するものだが、日本におけるその嚆矢が『南総里見八犬伝』である。伝奇小説はある意味では荒唐無稽さと奇想天外さが命綱でもある。明治以降では、白井喬二1920年に発表した『忍術己来也』から始まり、1922年の『神変呉越草紙』、土師清二の『砂絵呪縛』、国枝史郎の『蔦葛木曽桟』と続く伝奇小説の系譜がある。この系譜は、角田喜久雄(『髑髏銭』)、三上於莵吉(『雪の丞変化』)、林不忘(『丹下左膳』)、吉川英治(『鳴門秘帖』)、山田風太郎(『甲賀忍法帖』)、柴田錬三郎(『眠狂四郎無頼控』)、五味康祐(『柳生武芸帳』)、松本清張(意外なようだが、清張には『かげろう絵図』『西海道談綺』という傑作がある)、半村良(『産霊山秘録』)、安部龍太郎(『彷徨える帝』)、高橋克彦(『総門谷』)、夢枕獏(『陰陽師』)、荒山徹(『魔風海峡』)等々脈々として現代まで受け継がれている。勿論わが隆慶一郎(『吉原御免状』)もこうした伝奇小説の伝統の流れの真ん中にどっかと座っている。

 まあ、小説の世界では何でもありだ。現代でも夢枕獏の『陰陽師』は無論のこと、松岡圭祐の『千里眼』の世界も疑似科学満載である。スティーヴン・キング宮部みゆきもそうした傾向が強い。どうやら最近は小説と劇画の区別がつかなくなってきているようだ。白土三平の『カムイ伝』などは、下手な時代小説顔負けの伝奇作品の傑作である。これは、別に嘆いているわけではない。小説とはそんなものだろうと、勝手に納得しているだけなのである。