タイラー・コーエン著「大停滞」は話題となっているが、その土台部分はフィクションである

「大停滞」(NTT出版、11.9.28)は、大停滞しているわが頭脳を久々に活性化さてくれた本であった。
 大変話題になった問題作であるが評価の難しい本で、読んでいて、まるで巧妙な手品師に翻弄されている思いがした。

 著者の言いたいことは、短い<日本語版への序文>にほぼ尽きている。
 先ず08年の危機を招いた一因は、73年以降アメリカが経験してきた“大停滞”によるものである、と断定する。それは「平たく言えば、私たちは自分たちのことを金持ちだと勘違いし、たくさんの金を借りても十分に返済できると思って莫大な借金をしたが、実際は自分たちが思っていたほど金持ちでなく、金融危機という形で自信過剰と自己満足のツケを払わされた」ということである。
 大停滞の原因は、「イノベーション(技術革新)が停滞しているせいで、アメリカ経済は新しい雇用を生み出せていない」ということに尽きるという。

 著者はGDPの値そのものにも疑問を示している(その理由には納得できる)ほどだから、論旨を計数的、統計的に証明できない。したがって著者は推測を積み重ねて、推測から組み立てた論理で証明しようとする。したがって、そこから導き出される結論はフィクションというべきであろう。

「たくさんの金を借りても十分に返済できると思って莫大な借金をしたが、・・」とバブルに踊った組織や人びとの心理を解析しているが、その分析はやや粗すぎる。卓抜ではあるが、私には学者による机上の論理にしか思えない。
 私も日本における不動産バブル(つまり金融バブルでもあった)の真っただ中で当事者として(自業自得なのだが)一瞬黄泉の国に墜ちたかと思うような荒波に翻弄され続けてきた人間だが、「たくさんの金を借りても十分返済できる」と思ったのは実はバブル期の半ばくらいまでで、あとはシティグループの前会長チャック・プリンスが言ったように「音楽が流れている限りは、立ちあがって踊り続けなくてはならない。私たちは、まだ踊り続けている」という名セリフ(ソロスの講義録)のような希望のない不安な「黄昏の時間」(前著)の中にあったのである。

 CDOをたくさん保有したゴールドマン・サックスでさえ、住宅ローン・バブルの先行き、つまり破綻の到来を見越してAIGより大量のCDSを購入してリスクをヘッジしていたではないか。みな大いなる不安の中にいたのだが、ブームはG(重力加速度)のかかった物体のように、破滅の道を転げ落ちていることが分かっていても最早止めようがなかったのだ。

 本書(英語版)はもともと電子書籍版限定で出版されたもので、ハードカバーで出版する経緯を説明するために書いた<ハードカバー序文>の中の一節「そもそも、紙の書籍にせよ電子書籍にせよ、平均的な消費者がわざわざ本を買って読むかどうかも疑わしい」という言葉には大いに得心がいった。そもそも本を読むことはそんなに価値のあることなのだろうか、生きる上でそんなに必要なことなのだろうか。

 さて、本書の第5章<深刻な金融危機を招いた「真犯人」>を見てみよう。
 ここで、00年代終盤に発生した金融危機のさまざまな要因にも増して、もっと広い視野で金融危機を見たとき、「どうして、私たちはいくつもの過ちを同時に犯したのか。しかも、どうして、すべての過ちがおおよそ同じ方向に作用したのか」と問い、その理由として次の一点を指摘する。
― 私たちは、自分たちを実際以上に豊かだと誤解していた。
 このことはこの文頭で述べた。著者は更に続ける。
「私たちは意識的にせよ、無意識的にせよ、経済の生産性が年率3%を上回るペースで成長して、それにともない資産価格も上昇することを前提に、さまざまな計画を立てていた。3%の成長を当て込んで計画を立てたのに、実際の成長率がそれに届かなければ、経済が破綻するのは必然だ」
 この生産性3%というのは普通は労働生産性のことであろうが、文章後段では3%の成長率と言っているので、もしかして実質経済成長率(GDP)のことだろうか。やや分かりにくい。
 80年代以降はレーガンの経済政策による経済発展、ソ連の崩壊、中国の市場開放策、メキシコのNAFTA北米自由貿易協定)署名など好ましいことが続き、クリントン政権時代に至っても経済は順風満帆でアメリカ経済はあらゆる面で非常にうまくいっているように見えた。そこでアメリカ人が誤った楽観主義を抱くようになった、と著者は指摘する。
 しかし”誤った楽観主義”を抱き、前述のように自分たちを”金持ち”だと錯覚して”自信過剰”と”自己満足”に陥ったアメリカ人の不心得が金融危機の原因だと言われても、これらは通常の人間が誰でも持つ弱さであり一般的性質であるにすぎない。にもかかわらず、アメリカ人一般が、投資銀行や住宅ローン会社や格付け会社などの一定の作為をもって破壊的な事業を構築してきた者たち、またそれを支援した政府の要職にある多くの者たちよりよりも責任が重いとは誰が言えるであろうか。

 著者は更に続けて、そうした楽観的な底流があったため、実は悪いニュースも少なからずあったが、過剰な借り入れと過剰なリスクという根本の問題を是正せず、小手先の対策を講じただけで終わっている、と言う。
 悪いニュースとは、本書によれば、80年代前半のS&L危機、84年のコンチネンタル・イリノイ銀行の破綻、87年のブラックマンデーの株価大暴落、94年のメキシコ金融危機、97〜98年のアジア通貨危機、98年のヘッジファンドLTCMの破綻、01年のドットコムバブルの崩壊、01年の9.11テロなどのことである。
 08年の危機を作り出したのは、サブプライム・ローンや金融機関のレバレッジ、常軌を逸したデリバティブなのだが、そうした過ちが発生し、そのまま放置される環境を生みだしたのは、人々の自己満足だった、と著者は指弾する。ここでもアメリカ人一般の人間的な弱さが不祥事の主要な原因とされるが、前述のとおりでやはり首をかしげてしまう。

 そして「本当の問題は、投資家がおしなべてリスクを抱え込みすぎていたこと」にあると言う。
 さらに金融危機の要因として、自信過剰だったことに加えて、投資家がほかの投資家の判断を信じすぎたことを指摘する。
 そして、08年の金融危機を招いた大停滞の要因として、“容易に収穫できる果実”が食べ尽くされたことと、“ノベーションの停滞“が著者により指摘される。
 しかし、こうして展開される論旨は、おしなべて著者の推測と幻想に基づいており、まるでエルキュール・ポワロの推理を聞いているように感じるのは、私の僻目(ひがめ)だろうか。