森功「泥のカネ」は、小沢問題が消化不良、書くのが早すぎた?

本書は2011年4月5日、文藝春秋社の刊行だが、この日付に注目しよう。出版の後に本書の内容に深く関わる重大な出来事が二つ起きていることが分かる。

 一つは、3月11日の東日本大震災である。この時にはすでに原稿が印刷に回されていたと考えられ、本書ではこの震災のことには触れられていない。しかし本書を読むと、水谷建設前田建設工業とともに、敦賀原発から福島原発に及ぶ原発利権に深く関わっていることが分かり妙に得心する。また福島第2原発の残土処理をめぐり、水谷建設は奇抜なアイデアを東電に提案し、この事業にまんまと食い込む様子が書かれている。これが後に名古屋国税局の目に止まり所得隠しを指摘され、更には今や検察の大きな汚点とされる福島県知事汚職事件に発展する。これら利権に絡んで、大物政治家やいかにも怪しげな政商、リベート捻出の隠れ蓑になる下請け会社などが続々と登場する。

 二つ目は、6月30日、小沢一郎氏の秘書三人に対する「資金管理団体陸山会」を巡る事件で、東京地裁東京地検特捜部の検事が作成した供述調書の多くを証拠採用しない歴史的決定を下したことである。決定の中で東京地裁は「心理的圧迫と利益誘導を巧みに織り交ぜながら、巧妙に供述を誘導した」と検察を厳しく批判している。加えて8月11日の法務・検察首脳人事で、小沢氏の政治資金規正法違反事件を指揮した首脳陣の多くが更迭された。特に東京地検検事正として小沢事件の捜査を指揮した岩村修二仙台高検検事長名古屋高検検事長に就任、検事総長レースから脱落したと言われる。
 小沢事件と直接関係ないが、8月30日、日債銀事件の被告の旧経営陣に対し長銀事件(こちらは最高裁だが)に引き続いて東京高裁で無罪判決が出て検察は上告を断念、あらためて昨今の検察の凋落ぶりを浮き彫りにしている。

 本書で最も迫真的なのは、建設業界の談合の凄まじさと業界に巣喰う病根の根深い実態である。05年末に大手ゼネコンを中心に脱談合を宣言するまでの建設業界の談合は実に魑魅魍魎の世界だ。談合組織の頂点に位置する東西の大ボスが大型工事案件を次々と仕切っていく。談合組織の西のボスであった平島栄の拉致事件に関して許永中の名前が出てくるのには驚く。
 とにかく筆者の徹底した取材力には舌を巻く。これを読めば建設業界の談合の歴史が手っ取り早く理解できること請け合いである。
 余談だが、社名に「**組」などとつけているのは建設業界くらいで、業界内部の有様を見るとまるで江戸時代を思わせる。今では「**建設」という名前の会社も、以前は「**組」と称していたものが多い。

 また注目すべきは、本書で暴露されている水谷建設などの<北朝鮮利権>を巡る奇々怪々の動きである。狂言回しになっているのは、小泉訪朝時にも名前の取りざたされたNGOレインボーブリッジ事務局長の小坂某なる怪しげな人物である。狙いは、北朝鮮のインフラ事業に関するネゼコン利権と良質な土砂利権とのことだが、結局尻つぼみに終わっている。特に後者は、韓国と北朝鮮の軍人利権に配慮しなかったためうまくいかなかったらしい。

 そして、第8章では小沢一郎氏へ渡った(とされる)水谷マネーについて記述されているが、なぜか談合問題などに比べて歯切れが悪くなる。<・・・5千万円ずつ運んだという>とか、<・・・問題の1億円の献金は、・・社長だった川村らに命じた行為だとされる>など、伝聞を意味する表現が多くなる。ある意味これは当然であろう。裁判はまだ係属中であり、その行方も不明瞭であるからだ。
 先述したように、この本の出版後の6月30日に東京地裁は「陸山会事件」の証拠決定書で、検察側が証拠請求した元秘書三人の供述調書38通のうち十数通を採用しなかった。中でも、石川被告の「小沢氏に4億円の虚偽記載を報告し、了承を得た」という供述調書の任意性が「検事の威迫や利益誘導によってつくられたものだ」として全面否定されている。まさに、検察は真昼に突然襲ってきた暗闇の中で漆黒の木乃伊(ミイラ)を喰らう思いだったろう。
サンデー毎日」8.7増大号で、魚住昭氏はこうした「特捜」を「政党政治を否定した平成の特高警察」呼んで強く非難している。

 では、水谷建設から小沢事務所に渡ったとされる1億円はどうか?これも、どうもはっきりしない。
 水谷建設が、岩手の胆沢ダム関連工事の受注の謝礼として、5千万円ずつ2回、計1億円を小沢氏の秘書に渡し、この金が「陸山会」が購入した世田谷の土地購入資金の原資の一部となり、この裏金を隠すために小沢氏の秘書らが偽の収支報告書を作成、これを小沢氏本人も了承していた、というのが09年11月頃から共同通信などの大マスコミの躍起となって報道した内容である。しかし、石川、大久保の各被告に裏金を渡したとする水谷建設の川村元尚社長の供述と、受取っていないと主張する石川、大久保両被告の言い分が真っ向から対立して、検察はこの水谷マネーに固執したものの、結局全然証拠が固まらなかったのである。

 従ってと言おうか、検察審査会による起訴議決でも裏金については全く触れられることなく、被疑事実は「陸山会が平成16年10月に代金合計3億4264万円を支払い、世田谷の土地2筆を取得したのに、平成16年分の収支報告書に記載せず、翌年の収支報告書に、本件土地代金分過大の4億1525万4243円を事務所費として支出した旨、資産として本件土地を平成17年1月7日に取得した旨それぞれ虚偽の記載をした」という収支報告書の虚偽記載のことのみである。

 この本では、<全日空ホテルで大久保に5千万円の現金を渡す現場に立ち会った目撃者だと伝えられてきた>ダイナマイト業者の山本氏へ問い質す場面があるが、勿論話すはずもない。
 筆者は、<全日空ホテルで、問題の水谷建設から小沢事務所に対する1億円の裏献金工作がおこなわれたのは、その直後の出来事になる>と言い切っているが、余程の核心を掴んでいるのであろうか。この書を通して、親しくインタビューを重ねて来たせいか、水谷建設側の発言の方にややシンパシーを感じている傾向が見られる。

陸山会事件」の判決も、小沢氏の検察審査会の起訴に基づく裁判もこれから大きな局面を迎える。果して筆者の森氏はこの本を書き上げるのが早すぎたのだろうか?